日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

日本人が空気を読むという、日本的現象の社会/歴史的原因 〜日本の情緒的文化圏、無階級社会、近代的大衆社会とヨーロッパの過剰な論理的文化圏、明確な階級社会の対比と、共通する近代的大衆化問題

 

前回までのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

 

空気を読むことに関するものをまとめたのはこちらになります。今回の内容のものも含めて異なる角度からも説明してみたものですので、もし今回のものを読んで飽きたらないと思われましたならご覧になってみてください。

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空気を読むという、日本的現象の社会/歴史的背景

日本において空気を読む理由というのはどのような理由で現れてくると考えられるでしょうか。おそらくこの問題こそ未だ解決していない難問なんだと思いますが、一応簡単にだけ触れてみたいと思います。

 

ヨーロッパの論理的文化圏と、日本の情緒的文化圏

まず日本に対してヨーロッパを範とするのが近代日本の在り方でした。そしてヨーロッパはウェーバーが述べるように過剰に論理的な文化圏です。ですからそうしたヨーロッパ産近代を日本に移植する際、日本においても同じだけの論理性を持たなければなりません。これがひとつの課題でした。

 

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(ちなみに日本はずっと大国のそばにいるので、そうした大国から学んで自分のものにする国だ、という考えもあります。この観点からすれば、日本は文化的に大国からやってくる文物を取り入れ、自分たちで原理原則を作り上げることが下手だ、ともいえるかと思います。これもまた空気を読むひとつの文化的背景かもしれません)

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/18/213029

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/19/213026

 

しかしヨーロッパは古代ギリシアの時代から哲学をしてきた文化圏です。近代哲学に入っても物をどうやって人間は理解しているのか、ということまで徹底して考えています。それに比べると日本の古代は万葉集に代表されるような、情緒を表現する文化圏でした。それを前近代末期に入って本居宣長がもののあわれ、として取り出したのですが、いわば古代でも前近代末期において自分たちのルーツとみなしたものも、どちらも論理的なものではなく情緒的なものだったわけです。そうした中でヨーロッパ的近代を受け入れることは大変な困難をともなうと考えられます。そして社会的に論理的なコミュニケーションをとるよりも情緒によってコミュニケーションするような空気を読む行為が現れてくるとも考えられます。

 

ヨーロッパの階級と日本の無階級

次に階級問題があります。身分制度は日本にもヨーロッパにもありました。しかし日本では基本的に今は明確には存在しないと思えますが、ヨーロッパでははっきりと残っています(イギリスでサッカーファンということは、労働者階級を意味する、なんて読んだこともあります)。大衆に対して貴族、もしくはエリート層というものは明確で、だからこそ二大政党制が成り立ちます。しかし日本はこうした身分制度を持ちません。ですから社会層として対立するようなものがなく、大衆層が優位になるかエリート層が優位になるか、という形で一面的になってしまうかと考えられます。

 

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以前新聞で人権問題撤廃の日かなにかというのでコラムが書かれていました。そこでは戦後大変高名であったフランス文学者の桑原武夫の話が引いてあり、日本において明治政府の行った身分制度撤廃はヨーロッパの比ではなく徹底的だった、というのです。これを私なりに考えてみますと、明治維新の立役者となった人たちは大半が下級武士階級に属していたそうです。とはいえ新しく発足した明治政府において彼らは政治指導者です。しかし旧時代の身分制度から見ればでかい顔してるのはおかしい、と思われかねません。そのため旧身分制度を徹底的に破壊することによってしか自分たちの地位を安定させることが出来なかったのかもしれません。ともかくこうした徹底した身分制度の撤廃によりヨーロッパ的な階級対立は日本には存在しないことになります。これはヨーロッパに比べて日本の方が立派だと思います。

 

近代化にともなう人間の大移動 〜大衆の問題

続いて近代化における人間の移動の問題があります。近代以前というのは基本的に農業が中心です。そのため土地に縛り付けられて大半の人は生きているのですが、代わりに生まれた村から生涯出ることなく暮らしています。しかし近代的経済体制、すなわち産業革命以降になりますと農業ではなく生産が経済の中心になります。そして生産は工場で行われ、国中から人を集めて一か所で働かせるのです。こうして今までは生まれ故郷でしか生きてこなかった人間が、全く背景の違う者同士一緒に生活させられるようになります。ここから都市も生まれてきますが、同時に大衆という人間の群れも現れてくるのです。

 

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こうした大衆問題はヨーロッパでも日本でも同じです。そのためヨーロッパの大衆状況に対して先鋭な批判をしたオルテガの『大衆の反逆』という本も現れました。それは大衆は無責任で自分のことばかり考えて責任をとらない、というもので(それだけでもないんですが、ここでは簡単にそうしておきます)、代わりに自己鍛錬を果たした貴族(もしくはエリート)が責任を果たさなければならない、とでもいうものです。しかしこれは大衆を馬鹿にしたものや貴族の偉そばりとして読むのではなく、歴史的な変化によって人間が大挙して移動してしまった、ということであり、その結果かつてあった秩序が変化してしまった、ということに応対して現れた考えだと読む方がいいと私は思っています。

 

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さてこうした大衆状況ですが、日本では神島二郎という人が同じように庶民意識を分析したことがあります。それはかつて(近代以前)の庶民は村人で、その村に存在していた規則を守って生きていた。しかし近代化することによって都市部に吸収されそうした規則から切り離されてしまった。しかし都市部に行ったからといって代わりになる規則などなかった。そのため日本中からやってきた村人たちは、それぞれの村の規則のようなものを都市部において行うようになった。元々の村が第一の村であるとすれば、都市部は第二の村として現れた。しかし第二の村は第一の村と違い、昔から存在していたような規則の連続的合理性を持たない。そうした第二の村が主要な意思決定の場を占めてしまうのでヨーロッパ的な市民社会が育たない。多分こんな感じかと思います(神島二郎の本はとても読みにくいので、ちょっと自信がありません)。

 

こうした大衆状況はヨーロッパや日本だけでなく、近代化した国すべて起こってくると思われます。しかしヨーロッパは階級社会ですので、大衆に属さない層が一定数あります。しかし日本はそうした身分制度を撤廃することに成功しましたので、逆に大衆以外の階層が存在しないことになってしまったのだと思います。誰だったか、大衆社会の問題はすべて日本に当てはまる、と述べていた人がいた覚えがあります(日垣隆だったかな)。

 

そして大衆はマスコミュニケーションの対象です。マスコミのマスは大衆のことです。ですからマスコミの仕掛けるイメージ操作に左右されてしまいます。そしてイメージもまた論理的なものではありません。知識人がそうした大衆へのイメージ操作を批判しても大衆にとってはうるさいだけです。むしろ自分たちの好きなものにケチをつける嫌なやつでしかありません。それでも知識人層が存在していれば社会の意思決定を担う者へ働きかけることも有効ですが、大衆しか存在していない(つまり知識人層に配慮しても旨味がない)のであれば、大衆にしか目を向けずに意思決定をしていきます。そしてその際社会の意思決定者もまた広告的手法でイメージによって大衆を説得してしまいます。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051

 

こうなると空気を読むということと同じことが起こってきます。つまり論理性ではなく感情や情緒、伝播によるものを上位において意思決定するわけです。つまり空気を読むという問題は大衆支配の問題でもあるわけですね。日本ではそれを空気を読むと紋切り型になっているのは、丸山眞男が戦後最初に優れた論評をしたためともいえます。この場合日本人は空気を読む民族だ、というのは半分間違いかもしれません。空気を読むかどうかは別として、大衆社会では似たようなことが起こってくると考えられるからです。

 

 

こうした問題は、世界の近代化と日本の古層から考えられる文化的特質の混ざり合ったものと考えられるかもしれません。大衆問題は近代化した国では必ず現れてきます。しかしその現れ方はその国々で違います。たとえば資本主義の成立もウェーバーはエートスという考え方で表しましたが、それはカルヴァン派の宗教倫理から生まれたと考えられました。それを日本では儒教の文脈で論語を通して掴みました。そのため日本資本主義の父である渋沢栄一の本は『論語と算盤』なのです。これと同じように大衆問題も日本的に現れてくると考えることは無理があるとも思えません。そして日本版大衆問題として、空気を読む、ということが概念化されるかと思います。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/19/193041

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/20/193050

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/24/193056

 

気になったら読んで欲しい本

ウェーバー『音楽社会学』 

ウェーバーの大著の付録として書かれたものですが、音楽という本来感覚的なものであっても、ヨーロッパは五線譜で論理化してしまうほどに過剰論理的な文化圏である、というようなことが書いてあったかと思います。

中島義道『ウィーン愛憎』 

哲学者によるドイツ留学記ですが、ドイツでの徹底した論理的対立が滑稽さも含めて書いてあります。こうした姿がヨーロッパ的だとすれば、最近の日本におけるクレームなどちゃんちゃらおかしくも感じてしまいます。下宿先でガスストーブからガス漏れてるので危険だから直して欲しい、と言っても、前の人はそんなこと言わなかった(アンタがおかしい)といって取り合ってくれない大家さんの話などあります。これをひとつずつ理屈でねじ伏せていくわけです。もしかしたら、ようやく日本はヨーロッパ的水準に達したのかもしれません(でも漱石はそんなイギリスに行って病気になっちゃったけど…)。

本居宣長『玉勝間』 

日本におけるナショナリズムを形成した本であり、日本の文化的特徴をもののあわれとした本でもあります。ただ私は読んでいません。

丸山眞男『忠誠と反逆』 

で、丸山眞男か本居宣長に対して日本の古層をえぐり出そうとした本。と思うのですが、これも読んでいませんので内容については言うことが出来ません。

ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 

イギリスではサッカーファンは労働者階級、ていうのはこの本で目にした気がしますが、読んではなくてぺらぺらとめくって適当に拾い読みした時に目に入ったので、もしかしたら間違った文脈で紹介しているかもしれません。

ノーマン『日本における近代国家の成立』 

明治政府を担った者たちは下級武士出身者だった、ということはこの本で読んだ覚えがあります。なんでも当時の幕府や藩の高級官僚にあたる武士たちはすっかり腐敗してしまっていたので、実務を取り仕切っていた下級武士の者たちが結局西欧諸国との交渉や内政を行える唯一の層になったのだそうです。そしてそのまま維新後の政府も取り仕切るようになったわけですね  

オルテガ『大衆の反逆』 

オルテガの本。とても重要なことが書いてあります。ほとんど現代日本の姿のように見えるのですが、とても100年近くも前に書かれたとは思えません。これはつまり、この頃に私たちの社会が歴史的な激変を起こして今の形になった、ということかもしれませんね。ネット社会はこれと同じくらいの歴史的激変になるのかは気になるところですね。

神島二郎『近代日本の精神構造』 

神島二郎の本。内容は上に書いたようなものしか覚えていません。とにかく読みにくい本で、別に難しくて読みにくいわけではないのですが、文体が読みにくいのでしょうか。注も多いし解説の従軍体験の話も熱を帯びている、不思議な本です。

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 

ウェーバーが資本主義の成立の条件として宗教的な倫理を見出しました。エートスとして概念化されるのですが、これはヨーロッパにおいてなぜ近代資本主義が成立したのか、という問題によって探求されました。

渋沢栄一『論語と算盤』 

そしてこうしたエートスを非ヨーロッパ圏でいかにして掴み取るか、ということが資本主義後進国の大きな課題でした。そして日本では儒教を通してそれを可能にしたわけです。どこで読んだか忘れたのですが、非ヨーロッパ圏で資本主義化に成功したのは儒教圏だそうです。となるとやはり文化圏ごとに現れてくる社会現象の差というものはあると考えられそうです。

 

続きのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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【まとめ】大衆の問題と歴史的背景 ~土地から都市、アノミー、その特徴<オルテガ『大衆の反逆』>【39】

 

現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。

 

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まとめ39 大衆の問題と歴史的背景 ~土地から都市、アノミー、その特徴

このまとめの要旨

大衆について書いたものをまとめたのですが、かなり量があります。ここで説明してしまうととても長くなってしまいそうですので、よければ並べられている一覧でも眺めてみてください。興味あれば読んでみてね。

 

書いたものの一覧

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経済システムが変わったことによって農業=土地から生産=工場=都市へと人の集まる場所も変化し、人間の生きる場が共同体から社会へと変化しました、ーというようなお話。

 

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それはそもそも富の源泉が土地から都市へと変わり、たくさん商品を生産するために一か所に人を集めなくてはいけなくなったため資本主義の成立した国内で人が大移動し、かつての束縛からは解放されたけど、その自由と表裏一体の犯罪もくっついてきました、ーというようなお話。

 

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こんな大移動によってそれまで保たれていた価値観の基準が失われて、なにが正しいのか明確な基準がないものだからみんなアノミー化していそうです、ーというようなお話。

 

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そして大衆と庶民と同じように見えますが、大衆はそんな都市民で価値の基準が失われた人の群れで、庶民は土着の価値観に従って生きてる人の塊の違いですかね、ーというようなお話。

 

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なんで大衆が価値観の基準を失うかといえば、フライトの言うように子供時代に培われた価値観が一生を支配するのだとすれば、都市部の明確ではない価値基準を土台に人間精神が作られるので、根本的にアノミー化してしまうのかもしれませんね、ーというようなお話。

 

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デュルケームに従えば人間の認識は集合表象から与えられるけど、都市の集合表象はどこで作られるのかといえばメディアによると思われ、またメディアは広告機能を強く働かせるものだからイメージを常に新しく生み出し、固定化した価値観を維持しにくくてよりアノミーになりやすいのでは、ーというようなお話。

 

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新しい情報がメディアから伝えられてころころ変わるけど、そもそも社会自体が直接知られないような遠い地から様々なものを影響されて日常が作られているので、そうした直接知られない土地の情報も無視するわけにはいかず、メディアは常に新しい情報を与え続ける、ーというようなお話。

 

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また都市自体も建物や道路などが新しく作られては壊され変化していく、こうした記憶の風景もころころ変わってしまうのでアノミーとなる条件もまた増えそう、ーというようなお話。

 

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ではそもそもアノミーとはどんな考え方なのかといえば、集合表象と一致していない状態において起こってくる混乱状態のことで、これによって人は自殺までしてしまうもんだから大変な問題だと、ーというようなお話。

 

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そして都市は転勤や引っ越しもしょっちゅう起こるので人間関係自体もよく切り離されてしまい、必然的にアノミーを防止する役割もなくなりがちで、根本的なアノミーを抱えながら生きていくものなのかもしれない、ーというようなお話。

 

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そんな大衆について最初に鋭く分析したのがオルテガって人の『大衆の反逆』という本で、これからそこにかいてあったことを少しずつ書いていきます、ーというようなお話。

 

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大衆っていうけど、じゃあ逆はなんなのだ、と言えばエリート/貴族って考えるんだけど、それは社会的地位のことではなくて、自らに多くのものを課して責任を持って生きる人間のことなんだよ、ーというようなお話。

 

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でも実際に選ばれる政治家みたいなエリートは真のエリートとしてよりも、大衆にとって自分たちと似ているような人で安心させてくれるような人を選んでるみたい、ーというようなお話。

 

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大衆はそもそも目の前の世界を当たり前と思っていて、それを維持するためのどれだけの努力を払われなければならないか、っていうことを知りもしない、ーというようなお話。

 

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それは子供みたいなもんで、なんでもかんでも当たり前に要求して当然だと思っているのと同じ、ーというようなお話。

 

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そんな子供みたいな大衆だけど、日本の政治家って二世三世当たり前でいってみれば地元のお殿様みたいなもんで、実のところそんなお坊ちゃんによって行われているのが今の政治ってこと、ーというようなお話。

 

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また大衆と反対みたいに思える専門家も大衆の一種で、なぜなら専門分野以外については何も知らないのが専門家の弱点なんだけど、それを忘れてどこでも専門家みたいな態度をとって知ったかぶりみたいになって大衆と同じことをする、ーというようなお話。

 

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そんな専門家である科学者がどんな苦悩を抱えているか、というようなことを19世紀の例を紹介、ーというようなお話。

 

 

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大衆が生まれたのは歴史上最も優れた頂点の時代と思われるが、その力強い時代によって逆に不安にもなってる、ーというようなお話。

 

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大衆の在り方ってむしろ未開人の在り方とよく似てる、ーというようなお話。

 

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とはいえ未開社会にも知性はあり、その内部で馬鹿にされる人もいたるするんだけど、文明社会でも同じように大衆がそんな層としているのかもしれない、ーというようなお話。

 

 

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大衆現象は最初ヨーロッパ的なものだったのだけど、ヨーロッパが世界化されることによって世界中が大衆化した、ーというようなお話。

 

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大衆に対するエリート/貴族だけど、実はそれは今までは日常普通に暮らす人々、すなわち庶民によって担われていたのではないか、ーというようなお話。

 

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ではそんな庶民がなんで大衆に変化していくのかといえば、マスメディアを前にして態度が変わっていったからかもしれない、ーというようなお話。

 

 

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世界は地球規模で広がってしまい関係しあっているので、その範囲で情報も伝えられなければならなくなって、ますます今目の前で生きている世界よりもメディアの伝える世界の方が大きくなって現実感の比重も変わっていってしまった、ーというようなお話。

 

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そんな広い世界で情報を伝えるマスメディアによって人々は常にさらされ、マス=大衆へと染められていってしまう、ーというようなお話。

 

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しかしメディアは直接見知らぬ人と人をまとめあげる働きもしているから、無碍に出来るようなものでもないよ、ーというようなお話。

 

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それに大衆的生活を知らない人が決定権を待つとそれはそれで世の中のこと知らなくて困ったことが起こるはず、ーというようなお話。

 

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そんな例として吉本隆明は戦中非転向を貫いたインテリたちを批判したこともありました、ーというようなお話。

 

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そして大衆だけでなく群衆という問題もあり、ちょっと似てるんだけど違うところもあるような、そんなお話をこれからやっていこうかと思います、ーというようなお話。

 

 

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そして群衆の話もひと段落ついたところで、一応私なりに大衆と群衆の似てるところとか違うところとか書いてみました、ーというようなお話。

 

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ブレイヴァマン(1920-) 本【著作(翻訳)ブックリスト一覧/リンク(Amazon)】

ハリー・ブレイヴァマン(Braverman, Harry)

 

 

ブレイヴァマン著作リンク一覧

 

労働と独占資本 : 20世紀における労働の衰退(富沢賢治 訳. 岩波書店, 1978① )

 

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原理原則に従う空気を読まない方法のための古典的な知識と教養の必要性 ~空気を読むとは専門性を欠いた状態で伝播された情報を同調的に読み込むので、原典となる情報の認識によってのみ対抗・批判できる

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

 

空気を読むことに対抗できるのか

空気を読むことと非専門性

ここで次の問題になるのですが、空気を読むと言ってるのは、みなが空気を読むと言ってる空気を読んで言ってるだけ、というのは、たしかに印象批判としては間違ってはいないということです。つまり日本人は空気を読む民族だ、と言っている人のうちどれだけが丸山眞男に即して発言しているか、ということはかなり疑問です。丸山眞男の考えが空気という概念を提出し、それがあまりにも便利だから一般に流布しすぎたわけです。なんでも先日の行列のできる法律相談所を見ていたら、松本人志が空気を読むという言葉を広めた、と紹介されていましたが、芸人が笑いを取るためのキーワードとしても使われるくらいに一般化し広まったわけですね。こうなってくると原点を知らずに伝播したものを使ってしまっていることになるので、空気を読む、という空気を読んで言ってる、ということは妥当なのです。

 

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そして丸山眞男はこうした態度こそを批判しています。戦中時局を左右する発言権を握っていたのは実は知識人ではなく、文化人だった、という指摘をしています。それは政治学なら政治学の、経済学なら経済学の専門家が専門分野から社会問題に対して発言するのではなく、人前に露出するなんの専門性を持つかわからないような人間が発言権を握り大衆を指導した、というのです(書き方は違ったかもしれない)。それは確かなものと認められるために払い落とされた考えを敷衍するのではなく、どこに根拠があるのかわからない考えを伝播させているだけにすぎない、というわけです。それを科学的根拠と言ってしまうのは正しくありませんが、どこに根拠があって言ってるのかわかってるのか、という点は正しいのです。困ったことに戦前に対する分析が今とあまり変わりありませんね。

 

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ですから元々の考えと接することなく、言葉だけが伝播して伝わっていくことによって、ただイメージだけが広がっていってしまうわけですね。そうした時には伝えられた方も言葉とそれに結びついたイメージだけを理解するしかありませんので、元々の考えとかけ離れた理解をしたり、同じように伝播させるだけにしかならなくなってしまうのです。

 

もちろんそれは私がこうして書いていることも含まれます。ですが残念ながら私1人がやめてもネット環境がある限り最早なくなることはありません。となるとどうすればいいか、となれば、せめて前回述べたような認められた原典を掲げながら私個人のいい加減な意見を述べるしかありません。私の意見は間違っている可能性は多々ありますが、少なくとも学界において一定の評価をされた本は以下の通りです、と示すことです。本来なら引用箇所も載せられれば完璧なのですが、残念ながら利益の出ることもないブログにそこまで煩瑣な労力をかけることが出来ません。そして私の意見よりもこうした古典を読まれて自らの考えの糧にしてもらえるように期待するしかないと思われます。1番いいのは誰もいいかげんなことを書かないことですが、事実上不可能になっていると思います。そうした状況の中どうするか、と考えた時、私にはこうした方法しか思いつきませんでした。

 

空気を読むことを批判することまでが、空気の中に絡めとられる

そしてまた難しいのは、空気を読むことを批判して、それは空気を読んで空気を読んでいると言っているだけだ、という主張までもが、実は空気を読んだ批判にしかならないという問題です。というのもこの場合、空気を読む(A)というのに対して、空気を読むという空気を読んで言ってるだけだ(A=A)、という批判は自分は空気を読んでいない(非A)、ということになるからです。つまり

 

空気を読む        A

 

日本人は空気を読む    J→A

 

日本人は空気を読む、は空気を読んだ発言である            A(J→A)

 

自分は空気を読んでいない 非A✖️A(J→A)

 

となるのであって、 A=空気を読むという圏内から逃れられていないからです(おそらくコメントをしてくださった方はそんなことまで言った覚えはない、と思われるかと思いますが、これは延長した考えなのでゆるしてくださいね)。それが空気を読むことの恐ろしさかもしれませんが、空気を読まないで距離を置いているはずなのにその場合の立場が空気を読んでいる場合と同じく空気を読むことに依存しているのです。そしてその場合空気以外のなにかを提出することが出来ません。

 

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この場合批判するとしたら、空気を読む(A)という内容を把握し(A=Xである)、空気を読んでいない(非A)ではなくて、違う可能性(XではないY)を導き出さなければならないのですが、空気を読んでいる場合はA止まりの思考でXまで至りませんから、Yをぶつけても見当違いの批判にしか思われず意味をなさなくなってしまうのです。

 

そのため空気を読む思考は絶対に負けないのです。論理的ではなく、伝播的なので、いくら論理的な対抗軸を用意してもすり抜けてしまいます。空気によって決定された判断がのちの検証も成り立たず、また同じようにして空気で意思決定されてしまう理由がここにありますね。

 

空気に対抗すべき原典の思考

そのため空気を読まないで判断するには、まさに科学的根拠を持つはずの非自然科学的領域、すなわち学界によって払い落とされた人文・社会科学の古典にあたった上で、論理的に判断するしかないのです。しかしそのためには多くの書物を読まなくてはいけませんし、生半な努力と継続では身につきません。せめてひとつの楽器を一通り演奏できるようになるくらいの労力が払われると思うのですが、社会問題については誰しもがそんな労力なしに発言できると思われるのです。おそらくあまりにも日常的で当たり前に思われる現象には、なんの資格もなく権利があると思われるのかもしれません。

 

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分野は違いますが、ヘーゲルは哲学において、誰もが哲学のために労力を支払うことなく発言する権利を有していると思っている、と書いていたかと思います。当たり前のことは、そのための訓練や修養を必要しないと思われるのかもしれませんね。しかしそうした当たり前のことでも学ぶべき原典はあるのです。それこそ松本人志や明石家さんまでも、桂枝雀師匠の緊張の緩和から出発しているようなので、人間が当たり前に行う笑いという行為にも原点の考えがあるわけですね。

 

ダウンタウン松本人志の放送室書き起こし - 「放送室の記憶」

 

ですから社会問題について考えるためにはどうしても古典的著作を紐解く必要が出てくるのですが、これを疎かにすると伝播的な意思決定、すなわち空気で決められてしまうわけですね。そしてこうした態度は国民という単位で必要になってくると思われるのですが、残念ながらそのようなことは出来ていません。おそらく丸山眞男を代表とする戦後進歩派はそうした国民を育てることを目標としてたかと思いますが、多分失敗したのだと思います。そしてこうした社会問題に対する古典的書物との接触、すなわち教養を前提とする層がいなければ、社会決定されたものを唯々諾々と従い権力に従順な国民が現れてしまうのです。独裁国家で知識人狩りが行われる理由はここにあるわけですね。さしずめ日本は今、ゆっくりと自ら放棄しかけていると言えるのかもしれません。

 

 

そして社会における意思決定を論理的に行うためには決定者が論理的に説明する必要があるのですが、これはおそらく今でも行われているかと思います。しかしその検証に対しては教養層が同じように基礎となる古典に則って確かめなければならないのですが、その層を蔑ろにしているので、結局大衆的な支持、すなわち空気を読ませるやり方の方がまかり通っているわけです。いくら批判しても、そんな瑣末なことばっかり言ってるんじゃない、となってしまうわけですね。そして本来そうした教養層であるはずのジャーナリズムまでもが、そうした大衆的な書き方をするようになってしまいました。そうしないと売れないからかもしれません。そしてその方法のひとつとして広告的手法の応用であったり、感情的な訴えかけ(怒りや憎悪も含む)であったりするわけです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/12/070010

 

いわば社会の意思決定をする時に、論理的なものを上位に置くのではなく、感情的なものを上位に置いてしまうわけです。そのため個々人の関係でも起こるような感情の伝播が社会全体でも起こってしまい、非論理的な決定がなされてドツボへと向かってしまいがちになる、というわけですね。

 

そしてどうして空気を読むことが日本の特徴なのかということなのですが、今回もまた長くなってしまいましたので、次回にまわしたいと思います。

 

気になったら読んで欲しい本

 

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 
丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

とりあえず丸山眞男の本です。空気を読むということのもともとの考えはこの本にあります。空気を読むなんてことが紋切り型になってしまったということは、この本で書かれた問題が未だ解決されていないことを指すとも考えられます。

ヘーゲル『精神現象学』 

たしかヘーゲルが哲学について上のような意見を述べていたのはこの本だったような気がします。もしかしたら違ったな…ちょっと自信ありません。

 

続きのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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科学的根拠とは、科学的根拠に基づく認識とは何か。科学的根拠がないと指摘された空気を読む現象を例にして:自然科学における科学的根拠と、人文・社会科学 ~観察・実験・再現性から仮説、反証可能性、そして抽出された法則の数学化という自然科学と、未だ数学化にムラがあるも問題解決へと向かう人文・社会科学

 

元となるお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/19/190011

 

以前沢尻エリカについて書いてみました(随分前)。時々的な話題でしたので様々なコメントがブックマークにつけられたのですが、その中に空気を読むというけれど、大抵は日本人は空気を読む民族だ、という空気を読んで言っているだけで、科学的根拠はないし、こうした日本人特別論こそが外国人差別につなかってるのでは、という意見がありました。

 

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これは非常に重要な問題を含んでいると思われます。この問題について考えてみることは私なりに裨益することが十分あると思われますので、ちょっと取り上げさせてもらって考えてみたいと思います。最初は追記として書き足そうかと思ったのですが、長くなるかと思い今回別に書くことにしました(そして実際長くなり、しかもこれから一週間続くくらい長くなってしまいました)。

 

空気を読むことの科学的根拠 〜自然科学における科学的根拠と、人文・社会科学

まず空気を読むということに科学的根拠はない、という話から始めたいと思います。

 

丸山眞男の世界的評価

科学的根拠というものをどのように捉えるか、ということですが、この場合自然科学的根拠、ということを指すと思われます。というのも空気を読むということは丸山眞男が政治学の中で書いたものであり、しかもこの論書は当時日本社会学界の最高傑作、と世界的に評価されたといいます。少なくとも政治学という社会科学の中では国際的な場で評価されたものです。ミッシェル・フーコーという20世紀後半を代表する哲学者はわざわざ丸山眞男に会いにまで来たそうですし、ものすごい人だった、と述懐したそうです。政治学というアカデミズムの中で国際的に評価されたのだから非科学的だとは言えません。単に日本というタコツボの中で評価されたわけではなく、小林秀雄や吉本隆明のような偉いけど海外でそう知られていない文芸批評家とも違うのです。しかしそれに対してもこの場合科学的根拠があるとはみなしていないかと思います。なぜならばそれは科学の中の科学である、自然科学的水準を満たしていないと思われているからです。

 

科学的根拠とはどのようなものだろうか

科学的根拠その1 〜観察・実験・再現性、そして仮説と法則

では自然科学的な科学的根拠とはどのようなものでしょうか。これにもいくつか段階があるようです。まず19世紀的な科学では、観察・実験・再現性が不可欠です。まず観察して仮説を立て、次いでそれに従って実験をし、現れた結果が繰り返し得られると、それは正しいとみなされるわけです。こうして行われた研究の中で一定の法則を取り出して、それが科学的真理となるわけですね。

 

自然科学的手法の人文・社会科学への適用と挫折

しかし20世紀的な科学ではそれですまなくなってきたようです。19世紀的な手法で得られる範囲はそのままでかまわないのですが、科学の範疇が広がり適応範囲も増えます。自然科学の成功が素晴らしかったので、自然科学以外の人文・社会科学でも同じような手法を取り入れて明晰な科学にしようと学問の全領域(といってもいいと思う)で行われたようです。しかしうまくいきませんでした。

 

たとえば丸山眞男の弟子でもあった小室直樹という社会学者がいます。最初数学を学び、経済学に転向してからアメリカで諸学を学んで帰ってきたという異才の持ち主です。社会科学全般に通じていますが、その最初の出発点は数字でした。その小室直樹が社会科学における数学化は経済学以外ではほとんど出来ていない、と判断しています。なんでも自然科学があって、そこからだいぶ落ちて経済学があり、さらにだいぶ落ちて社会学があり、もっと落ちてどん底に政治学がある、という話です。

 

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そして自然科学が自然科学たる理由の大きな点は数学化にあります。19世紀的科学の手法によって一定の法則が取り出されるとしたら、それは数学によって表現されることが可能だからです。そして数学化されることによって取り出された法則は、法則そのままとして他分野に応用可能です。ニュートンの物理学があれば飛行機は飛ばせるわけですね。

 

ですがこうした数学的な科学的手法は自然科学以外ではうまくいきませんでした。今もそのようです。

 

科学的根拠その2 〜反証可能性

そこでカール・ポパーという科学哲学者が科学の根拠として反証可能性をあげました。それは科学が観察・実験・再現性にあるとすれば、まずそうした検証をするために必要となる仮説を取り上げて、この仮説が他の観察や実験によって反証(つまり間違っているとか異論を言える)出来なければならない、としました。ポパーが念頭にあげているのはマルクス主義や精神分析のようですが、これらはこうした反証可能性を満たしていないから科学ではない、というわけです(ただ私はポパーを読んでいません)。

 

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たしかにマルクス主義や精神分析は確かめようのない問題でもあります。とはいえどちらも範囲が広すぎますから開祖のマルクスとフロイトに限って考えてみますと、マルクスが資本主義の発展が共産主義の必然である、とか、フロイトが患者相手に行った精神分析内容が正しいのかどうか、は他の何かと比較して確かめることは出来ません。資本主義の先行きは実験出来ませんし、精神分析家の解釈はその精神分析家のもの(多分)ですから異論のたてようがありません。ですからマルクス主義や精神分析が科学ではないということはポパーの観点からすれば妥当であると言えるかもしれません。

 

しかしポパーの観点は観点として、自然科学的な水準で成り立っている科学は小室直樹の言う通りなら人文・社会科学ではほとんどありません。ではどうやって科学であるのか、ということが問題ですが、門外漢の私には断言することなど出来ませんが、おそらく今もって問題のままなのだと思います。

 

丸山眞男の分析と実証性

たとえば丸山眞男の論を読んだ柳田國男は、実証性がないな、と言ったそうです。丸山眞男は東京裁判の記録から軍指導者の発言を取り上げ、軍指導者たちが戦力の差からアメリカと開戦したら必ず負けること、みな心中では戦争に反対であったこと、しかしそれを主張することが出来ずにその場の空気で開戦へとなだれ込んでしまったこと、などをとりあげ、日本の軍指導者たちはナチスの指導者たちとは異なり明確で強烈な自我を持ち得ず、その場の空気という非論理的なものに従ってしまった。そして必ず負けると判断していたにも関わらず開戦という非合理的な判断を選択してしまった、と判断しました。これが実証性がないというのは、おそらく柳田國男にとって日本の常民と呼んだ実際の生活者たちを調査しに向かったのに対し、丸山眞男は東京裁判の出席者に直接当たらず記録という二次資料だけに頼っている、という判断かもしれません。

 

しかし柳田國男の起こした民俗学でも小谷野敦という人がよく批判しているように、最早そうした日本の民俗自体が失われています。そしてそれなのになぜ民俗学はまだ存在しているのか、ということが問題にされます。つまり、実証性となりえる対象の失われた学問も存在しているわけですね。

 

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そして直接確かめようのない問題もあります。たとえば世論がそうです。本来厳密な実証性を求めるならひとりひとり確かめなければなりません。しかしそんなことは出来ませんので、統計学の力を借りてアンケート調査等を使って最大公約数的な意見を取り出すわけです。それはたしかに大体当たっているとみなされますが、絶対に一致するわけではありません。これは社会というものが広がりすぎてしまったために、個別的な実証性というものが不可能になったからだと思われます。民主主義もマスコミュニケーションも同じことで、国民の代表として議員が選ばれ大衆の支持としてメディアに情報が流されるわけですが、それを個々の人間がみな喜ぶわけではありません。いわば統計的に支持されているとみなされているわけで、個別化などはなから意識していないわけです。

 

困るのが医療です。ある病状が統計的に8割無事といっても、残りの2割に当たって死んでしまっては統計によって大体当たるから大丈夫、とはいえません。また確か平岩正樹という医者だったと思うのですが、漢方はたしかに効くのだが、その理由を医学で説明するのにあと100年かかる、と述べていたはずです。だからといって解明される100年後まで待っているわけにはいきません。その前に病気は悪くなり死んでしまいます。なぜそんなにかかるかというと西洋医学と東洋医学で人体への取り扱い方が全く異なるからで、西洋医学はデカルトの観点をひき分割することによって原因を特定していくのに対し、東洋医学は全体のバランスを見て整えていくからです。こうした全体のバランスを考慮に入れず部分的な解明の総体として病気を見るので、東洋医学的な医療行為は西洋医学では正体不明の存在にしかなりません。そのためこの隙間に入って代替医療の悪徳商法が生まれるのですが、しかしそれは西洋医学だけでなく東洋医学においてもインチキとみなされるでしょう。なぜなら西洋医学に研究団体があるように、東洋医学にも研究団体があるからで、そこで認められているもの以外はやはりインチキだからです。

 

学界における払い落とし

こうなってくるとそこで正しいか否かという問題はそうした研究団体、すなわち学界によって払い落とされて決定されていくといえます。医学など自然科学における科学的根拠とは、こうした専門学界によって正しいと認められたものが正しいわけです。過去の蓄積と最新の知見との間で、刻々と現れてくる仮説を実証性のもと科学的根拠としていくわけですね。中にはインチキと思われる研究もあるのかもしれませんが、それを他の専門家たちがよってたかって批判してどう間違っているか、もしくは正しいか、ということが決められていくのだと思われます。

 

 

しかしこうした学界は自然科学だけにとどまりません。自然科学化/数学化が未だなされていない人文・社会科学においても存在します。そうした学問領域でも漢方のように100年後までわからない、と目の前の課題を放っておくわけにはいきません。政治でも経済でも刻々と変化し問題は起こってきます。少なくともそうした現実に起こる社会問題に対して、こうした学問は解決の糸口となることを期待されているでしょう。いつか完成する答えまで待ってくれ、といって死ぬまで答えないわけにはいきません。そのためこうした学界でも答えを出そうと苦心を重ねて研究していることでしょう。そしてそうしたそれぞれの水準で実証性も求めているかと思います。民俗学であれば直接農村を訪ねて見聞きし、話を聞く。歴史学であれば史料を発掘する。社会学であれば組織を観察したりアンケートとか調査をしたりする。多分こうしたことをすると思います(直接知らないから想像にしかならないけど)。

 

蓄積されたデータと理論化

そうして集められたものがひとつのデータとなり蓄積されていくことでしょう。いわばこの段階が自然科学における観察にあたるかと思います。となると次は自然科学が行なったように仮説を立てなければなりません。理論化です。こうした理論は各資料を使い、すでに存在している古典的理論とみなされるものを利用したり批判したりして書かれるかと思います。そして新たに生まれた理論も学界の中で批判され妥当とみなされたものが新しい古典的理論として認められるわけですね。

 

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こうした理論はたくさんあります。たとえば、ウェーバーの資本主義成立の理論、デュルケームの社会的混乱や社会起源の認識の理論、フッサールの体験の学問化の理論、などなど。そしてそれぞれエートス、アノミー、集合表象、現象学といった形で概念化され、他分野にも応用されています。現象学は哲学ですが社会学にも応用されシュッツの現象学的社会学が生まれましたし、エドワード・レルフやイーフー・トゥアンのような現象学的地理学(だったかな)なんていうのもあります。デュルケームの集合表象は人類学に応用されましたし、アノミーは現代社会を考えるのに非常に便利な概念です。

 

これと同じように丸山眞男の提出した空気という概念は、日本社会における意思決定のメカニズムの把握として学問的に認められたといえるかと思います。もちろん批判はあるでしょうし、間違っていると考えてもかまいません。それはポパーのいう反証可能性というものです。そのため日本人は空気を読む民族だ、というのは、みなが空気を読むと言っている空気を読んで言っているだけで、科学的根拠など一切ない、というのは、少なくとも政治学や丸山眞男に照らして判断するならば不十分かと思われます。

 

まとめ

まとめますと

 

1.科学的根拠とみなされる自然科学の方法は、人文・社会科学においてはまだ未成熟である。

 

2.しかし各分野における諸問題への解決の試みは放棄されるわけにはいかない。

 

3.そのため専門家集団における議論の中で妥当とみなされるものが払い落とされて決定していく。

 

4.そしてそうした理論や概念が古典化して現状分析や他分野への応用がなされる。

 

といったところでしょうか。

 

ひとつしかお話できませんでしたがあまりに長くなりすぎてしまいましたので、今回はこれでやめにします。あぁ、疲れた。

 

気になったら読んで欲しい本

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

丸山眞男の本。戦中の軍事指導者の発言をもとにして空気という概念を取り出しています。空気を読む、とか、日本人は空気を読む民族だ、という紋切り型に疑惑を持たれる方はまずその原典に目を通してみるのがいいのではないでしょうか。元の論文は文庫におさめられていて手に取りやすくなりました。ひとつひとつの文量もさほど多くありませんので、読もうと思えば読める本かと思います。ただ私は文庫版は読んでいません。

『わたしの知的生産の技術』 

小室直樹が社会科学の数学化の段階について書いていたのはこの本の中でです。いろんな人の勉強方法を紹介したもののひとつとして小室直樹がいます。私は小室直樹のところだけ読みました。

メンデル『雑種植物の研究』 

19世紀的科学の典型的な探究方法が実際に行われて書かれた本かと思いますので載せておきます。メンデルはエンドウマメを使って遺伝の研究をした人ですね。それを観察・実験・再現性という手順を踏んで証明しているんだと思います(私は詳しくないので読んでもよくわからないんですけど)。読んでみると大変手間のかかる研究のように思えます。これを刻一刻と変化する社会において応用すると、膨大になりすぎてやりきれないのかもしれませんね。

ベルナール『実験医学序説』 

私は読んでいないんですが、19世紀的な科学の手順を整理した本らしいことを読んだ覚えがありますので、一応載せておきますね。ちなみにゾラはこの本を応用して自分の小説世界を作ろうとしたのだそうです。当時は小説でも科学的になろうとしたのですね。

ポパー『科学的発見の論理』 

ポパーの本ですが、私は読んでいません。大体上に述べたことくらいしか知りませんので、興味ある方はこちらを読んでちゃんと正しく判断してくださいね。

平岩正樹『がんで死ぬのはもったいない』 

平岩正樹の本。私は読んでおらず、昔週刊誌で書かれていたエッセイで上のようなことを読んだ覚えがあります。同じ版元なのでもしかしたら雑誌に書いてあることが含まれているかもしれないと思い載せておきました。

理論と概念の本4冊

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケーム『自殺論』 

フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 

これらが色々な分野に適応可能とされる理論と概念の本です。こうしたものがどのように書かれて応用されていったのか、ということは、空気を読むということが広がっていったことと比べてみるのも面白いかもしれません。

応用の本5冊

モース『贈与論』 

レヴィ=ストロース『野生の思考』 

シュッツ『社会的世界の意味構成』 

レルフ『場所の現象学』 

イーフー・トゥアン『空間の経験』 

こうしたものが応用されたものの例かと思います。比べて読んでみると面白いかもしれませんね。私は読んだものもありますし読んでないものもあります。

 

続きのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

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https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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