日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

原理原則に従う空気を読まない方法のための古典的な知識と教養の必要性 ~空気を読むとは専門性を欠いた状態で伝播された情報を同調的に読み込むので、原典となる情報の認識によってのみ対抗・批判できる

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

 

空気を読むことに対抗できるのか

空気を読むことと非専門性

ここで次の問題になるのですが、空気を読むと言ってるのは、みなが空気を読むと言ってる空気を読んで言ってるだけ、というのは、たしかに印象批判としては間違ってはいないということです。つまり日本人は空気を読む民族だ、と言っている人のうちどれだけが丸山眞男に即して発言しているか、ということはかなり疑問です。丸山眞男の考えが空気という概念を提出し、それがあまりにも便利だから一般に流布しすぎたわけです。なんでも先日の行列のできる法律相談所を見ていたら、松本人志が空気を読むという言葉を広めた、と紹介されていましたが、芸人が笑いを取るためのキーワードとしても使われるくらいに一般化し広まったわけですね。こうなってくると原点を知らずに伝播したものを使ってしまっていることになるので、空気を読む、という空気を読んで言ってる、ということは妥当なのです。

 

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そして丸山眞男はこうした態度こそを批判しています。戦中時局を左右する発言権を握っていたのは実は知識人ではなく、文化人だった、という指摘をしています。それは政治学なら政治学の、経済学なら経済学の専門家が専門分野から社会問題に対して発言するのではなく、人前に露出するなんの専門性を持つかわからないような人間が発言権を握り大衆を指導した、というのです(書き方は違ったかもしれない)。それは確かなものと認められるために払い落とされた考えを敷衍するのではなく、どこに根拠があるのかわからない考えを伝播させているだけにすぎない、というわけです。それを科学的根拠と言ってしまうのは正しくありませんが、どこに根拠があって言ってるのかわかってるのか、という点は正しいのです。困ったことに戦前に対する分析が今とあまり変わりありませんね。

 

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ですから元々の考えと接することなく、言葉だけが伝播して伝わっていくことによって、ただイメージだけが広がっていってしまうわけですね。そうした時には伝えられた方も言葉とそれに結びついたイメージだけを理解するしかありませんので、元々の考えとかけ離れた理解をしたり、同じように伝播させるだけにしかならなくなってしまうのです。

 

もちろんそれは私がこうして書いていることも含まれます。ですが残念ながら私1人がやめてもネット環境がある限り最早なくなることはありません。となるとどうすればいいか、となれば、せめて前回述べたような認められた原典を掲げながら私個人のいい加減な意見を述べるしかありません。私の意見は間違っている可能性は多々ありますが、少なくとも学界において一定の評価をされた本は以下の通りです、と示すことです。本来なら引用箇所も載せられれば完璧なのですが、残念ながら利益の出ることもないブログにそこまで煩瑣な労力をかけることが出来ません。そして私の意見よりもこうした古典を読まれて自らの考えの糧にしてもらえるように期待するしかないと思われます。1番いいのは誰もいいかげんなことを書かないことですが、事実上不可能になっていると思います。そうした状況の中どうするか、と考えた時、私にはこうした方法しか思いつきませんでした。

 

空気を読むことを批判することまでが、空気の中に絡めとられる

そしてまた難しいのは、空気を読むことを批判して、それは空気を読んで空気を読んでいると言っているだけだ、という主張までもが、実は空気を読んだ批判にしかならないという問題です。というのもこの場合、空気を読む(A)というのに対して、空気を読むという空気を読んで言ってるだけだ(A=A)、という批判は自分は空気を読んでいない(非A)、ということになるからです。つまり

 

空気を読む        A

 

日本人は空気を読む    J→A

 

日本人は空気を読む、は空気を読んだ発言である            A(J→A)

 

自分は空気を読んでいない 非A✖️A(J→A)

 

となるのであって、 A=空気を読むという圏内から逃れられていないからです(おそらくコメントをしてくださった方はそんなことまで言った覚えはない、と思われるかと思いますが、これは延長した考えなのでゆるしてくださいね)。それが空気を読むことの恐ろしさかもしれませんが、空気を読まないで距離を置いているはずなのにその場合の立場が空気を読んでいる場合と同じく空気を読むことに依存しているのです。そしてその場合空気以外のなにかを提出することが出来ません。

 

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この場合批判するとしたら、空気を読む(A)という内容を把握し(A=Xである)、空気を読んでいない(非A)ではなくて、違う可能性(XではないY)を導き出さなければならないのですが、空気を読んでいる場合はA止まりの思考でXまで至りませんから、Yをぶつけても見当違いの批判にしか思われず意味をなさなくなってしまうのです。

 

そのため空気を読む思考は絶対に負けないのです。論理的ではなく、伝播的なので、いくら論理的な対抗軸を用意してもすり抜けてしまいます。空気によって決定された判断がのちの検証も成り立たず、また同じようにして空気で意思決定されてしまう理由がここにありますね。

 

空気に対抗すべき原典の思考

そのため空気を読まないで判断するには、まさに科学的根拠を持つはずの非自然科学的領域、すなわち学界によって払い落とされた人文・社会科学の古典にあたった上で、論理的に判断するしかないのです。しかしそのためには多くの書物を読まなくてはいけませんし、生半な努力と継続では身につきません。せめてひとつの楽器を一通り演奏できるようになるくらいの労力が払われると思うのですが、社会問題については誰しもがそんな労力なしに発言できると思われるのです。おそらくあまりにも日常的で当たり前に思われる現象には、なんの資格もなく権利があると思われるのかもしれません。

 

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分野は違いますが、ヘーゲルは哲学において、誰もが哲学のために労力を支払うことなく発言する権利を有していると思っている、と書いていたかと思います。当たり前のことは、そのための訓練や修養を必要しないと思われるのかもしれませんね。しかしそうした当たり前のことでも学ぶべき原典はあるのです。それこそ松本人志や明石家さんまでも、桂枝雀師匠の緊張の緩和から出発しているようなので、人間が当たり前に行う笑いという行為にも原点の考えがあるわけですね。

 

ダウンタウン松本人志の放送室書き起こし - 「放送室の記憶」

 

ですから社会問題について考えるためにはどうしても古典的著作を紐解く必要が出てくるのですが、これを疎かにすると伝播的な意思決定、すなわち空気で決められてしまうわけですね。そしてこうした態度は国民という単位で必要になってくると思われるのですが、残念ながらそのようなことは出来ていません。おそらく丸山眞男を代表とする戦後進歩派はそうした国民を育てることを目標としてたかと思いますが、多分失敗したのだと思います。そしてこうした社会問題に対する古典的書物との接触、すなわち教養を前提とする層がいなければ、社会決定されたものを唯々諾々と従い権力に従順な国民が現れてしまうのです。独裁国家で知識人狩りが行われる理由はここにあるわけですね。さしずめ日本は今、ゆっくりと自ら放棄しかけていると言えるのかもしれません。

 

 

そして社会における意思決定を論理的に行うためには決定者が論理的に説明する必要があるのですが、これはおそらく今でも行われているかと思います。しかしその検証に対しては教養層が同じように基礎となる古典に則って確かめなければならないのですが、その層を蔑ろにしているので、結局大衆的な支持、すなわち空気を読ませるやり方の方がまかり通っているわけです。いくら批判しても、そんな瑣末なことばっかり言ってるんじゃない、となってしまうわけですね。そして本来そうした教養層であるはずのジャーナリズムまでもが、そうした大衆的な書き方をするようになってしまいました。そうしないと売れないからかもしれません。そしてその方法のひとつとして広告的手法の応用であったり、感情的な訴えかけ(怒りや憎悪も含む)であったりするわけです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/12/070010

 

いわば社会の意思決定をする時に、論理的なものを上位に置くのではなく、感情的なものを上位に置いてしまうわけです。そのため個々人の関係でも起こるような感情の伝播が社会全体でも起こってしまい、非論理的な決定がなされてドツボへと向かってしまいがちになる、というわけですね。

 

そしてどうして空気を読むことが日本の特徴なのかということなのですが、今回もまた長くなってしまいましたので、次回にまわしたいと思います。

 

気になったら読んで欲しい本

 

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 
丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

とりあえず丸山眞男の本です。空気を読むということのもともとの考えはこの本にあります。空気を読むなんてことが紋切り型になってしまったということは、この本で書かれた問題が未だ解決されていないことを指すとも考えられます。

ヘーゲル『精神現象学』 

たしかヘーゲルが哲学について上のような意見を述べていたのはこの本だったような気がします。もしかしたら違ったな…ちょっと自信ありません。

 

続きのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

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