物のない時代と資本主義 〜足りない頃は生産で回る
資本主義が生産を止められないシステムであるとするならば、作った商品を売らなければなりません。しかし未だ近代化がなされていない国ならばともかく、達成されてしまった国では物は全国に行き渡っています。そうなると資本主義下にある経済は生産中心に回ってはいけません。買ってもらえる方法をあの手この手で考える消費中心の経済へと変わっていくようです。
その前にまだ物を作ることが経済の中心である社会はどのようなものか考えてみましょうね。
足りない物がたくさんある初期の産業社会
近代と近代以前とは色々と違いがあって私などには全体がどう違うのかわかりません。ただアダム・スミスが考えたように生産中心の経済体制が成立した社会だとはいえそうです。ではそれ以前はどうだったかというと、農業中心の社会だったようです。
これが産業革命によって生産中心になりますと、あちこちに足らないものが出てきます。生産するためには材料が必要ですが、運んで来なければなりません。しかし運んで来るための整備はまだありません。鉄道でも道路でも一から作らなければならないのでした。
国中に行き渡らせるための生産
これを国中に行わなければならないので、生産してもいくらでも必要になってきます。言ってみれば田中角栄の日本列島改造論みたいなものでしょうか。インフラが整備されてないから作らなくっちゃいけないわけですね(そんなわけでかつてIT革命と持て囃されたのは、IT関連のインフラを整備するために大量の生産が必要となるからでした。二度と訪れないと思われていた一からの成長が新しい分野が生まれたことで可能になったのですね。スマホでまた起こったのでしょうね)。
一方、私たちの日常生活でも同じことが起こってきます。着物から洋服に変わればすべて入れ替えなければなりませんし、高度経済成長期に言われたような三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)なんてのもありました。服装は文化の違いになりますが、家電となると利便性で逆戻り出来ません。こうした物を1つずつ揃えていかなければならないので、この段階でも生産優位になるかと思います。田中角栄に対して松下幸之助の水道哲学でしょうか。必要な物をより安く、ですね。これは人々に足りない物がたくさんある間は非常に立派な志だと思います。
こうした状況を見ていますと、ウェーバー流の資本主義の精神が物を言いそうです。事実戦後の日本ではウェーバーはよく研究されたようです。大塚久雄という偉い専門家もいました。
いつかはやってくる足りない物のなくなる時代
しかしこうした足りない物を揃えていくようなことを何十年もやっていますと、いつかは足りない物がなくなってしまいます。それは物質的欠乏を克服した、かつての時代なら望んでも望み得なかった時代ですが、現実にやってきてしまいました。私たちの生きている世界はほぼそのような状況といえるのではないでしょうか。そしてこうした時代になってしまいますと、足りない物がないのでただ生産するだけでは商品は売れなくなってしまいます。しかしだからといって商品を生産しない、という選択肢は資本主義においてはないようですから、やっぱり生産し続けます。けれどもそんなことをしていては商品がだぶつき恐慌が起こってしまいかねません。
必要な物はないのに、商品を売らなければならない時代
こうして必要な物はもうない(克服された)にも関わらず、商品を売らなければならない消費の時代がやってくるのでした。
気になったら読んで欲しい本
【大塚久雄『欧州経済史』『社会科学における人間』『社会科学の方法』】
う〜ん、大塚久雄はなにを選べばいいのでしょうか。私は数冊しか読んでないのでよくわかりません。この本は読んでないのですが、ある本のブックガイドとして載っていたので、もしかしたら大塚久雄の真髄があるのかもしれません。
私が読んだのは
この2冊でしたが、ちょっと内容は忘れてしまいました。ただウェーバーの言う資本主義の精神が『ロビルソン・クルーソー』に如実に現れていることを説明されていたのは覚えています。とても面白かったですし、読みやすい本でした。
【ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』】
ちなみに前回までによく載せていたウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳者でもあります。なんでも本文は早世した他の学者の訳そのままだ、という批判もあるそうですが、私にはそんなややこしい内部事情は判断できませんので、単に大塚久雄は偉い先生だ、とだけ思っています。
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お話その114(No.0114)