創作と論述 〜周りの世界に対する表現の仕方が違う?
創作と描写
創作は描写が入りますが、他の文芸ジャンルではまずありません。小説はレッシングによると時間的芸術で、小説の言葉は前から後、前から後、というふうに続いていきます。この関係が時間と同じなので小説は時間的芸術となるのかもしれません。
ではエッセイや評論、論文はどうなるのでしょう。
描写はありません。しかしエッセイなら入っていてもいいでしょう。紀行文ならあってもおかしくありませんね。けどある地域の風土を分析した文章であれば皆無の可能性もあります。
【モンテーニュ『エセー』】
これは自然を言葉で表現しなければならないから入り込んでくるわけですね。となると自然、いえ自然世界と言った方がいいのでしょうか、私たちの周りに存在する世界を可能な限りそのままに表現しようとすると描写が入り込むのかもしれません。そして周りの世界を捉えるとしたら、人間である以上どうしても視覚的で、空間を言語化しなければならないから表現上の転倒が起こるのかもしれませんね。
論述と世界
では描写が入り込まない文章は周りの世界に無関心なのでしょうか。
そんなことはないと思います。社会科学というものはすべて身の回りの世界を対象にしています。社会学でも経済学でもそうでしょう。しかし当然描写はありません。それは周りの世界を目に映るままそのままに表現しようとしないからです。
かわりに周りの世界の在り方に対して、本質的な姿で表現しようと努力しているのではないでしょうか。社会学が難しい用語を使い、経済学か複雑な数式を使って表現しようとしているのは、そうした用語や数式を使ってしか捉えることができず、またその方が本質的に最もわかりやすく捉えることが出来ると考えているからそうなるのかもしれません。
創作と論述の違い
となると、この辺りで小説のような創作と表現されるものが異なってくることがわかってきます。
小説(創作)は身の回りの世界に対して普段通り、そのままに私たちが受け取っているようにして表現することを望み、論述(評論や論文)は周りの世界を最も本質的な形で理解できるように表現しようとする。
こういう分け方が出来るかもしれませんね。
そしてその時、小説の言葉は時間的に表れてくると考えられるのに対し、論述は論理なのではないでしょうか。その理由は…よくわかりません。また考えていきましょうか。なんだか段々私の力量を越えたことばかりに問題が向かっていて、ちょっと心配になってきます。大丈夫かな。
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エッセイと小説における観点/視点の違いと論述における世界の理解の違い 〜エッセイは私が主人公の小説だ(ちょっとちゃうやろ…)(付:モンテーニュ『エセー』/パスカル『パンセ』) - 日々是〆〆吟味
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お話その40(No.0040)