価値は従うものなのだろうか 〜作った人が認めるカナヅチの使い方
◯◯してはいけない、という意味づけ
カナヅチを人を叩く道具と捉えてしまうのは困ったものです。ですからカナヅチは人を叩いてはいけません(XはBではない)、と定めてしまってもいいかもしれませんね。となるとカナヅチは人を叩くものではない、というように意味づけられるわけです(Xは-Bである)。
これは見返してみると、今までとちょっと違う意味づけの仕方ですね。今まではカナヅチとは釘を打つ道具である(XはAである)、とか、人を叩く道具である(XはBである)、なんて意味づけられていました。玉ねぎでも思い返してみましょう。炒飯に入れるかカレーに入れるか(XはAかBである)が意味づけの違いでしたね。
これらは◯◯である、という形での意味づけでした。しかし今度は◯◯ではない、という意味づけの仕方になっています。つまり同じ物であっても、使われることに意味がある場合と、使ってはいけないことによって意味がある場合とにわかれているわけですね。使い道だけでものの価値を決めてはいけないわけです。
使い方は最初から決められている?
考えてみれば当たり前です。どんな商品を買っても説明書にはこのような使い方をしないでください、と書いてあります。禁止事項が決められているわけですね。それを守らず使用すると、壊れたり売ってる側でも責任は取れませんよ、と一線を引いているわけです(XはAであり、A以外として使用すればXを保証しない)。その線の内側が正しい、越えてしまうと正しくない、と提供側では決めている、ということになるでしょうか。だとすると道具の正しい使い方というのは、与える人によって決められていて、それにはずれると間違っているのかもしれません(提供者PはXをAとして認め Bとしては認めない よってAが正しい)。
そう考えるとゲームの中でカナヅチを使ってゾンビを叩いてもどこもおかしくないですね。だってゲームを作っている人は、カナヅチをゲームの中でゾンビを叩くものとして提供しているわけです。ですからコントローラーを握る私たちはなんの気兼ねもなくカナヅチでゾンビをぶっ叩いてもかまわないわけです。
かわりにホームセンターで売っているカナヅチは、カナヅチ屋さん(って、あるんでしょうか)が釘を打つのに使うのが正しくて、人を叩くことなんて認めていないから間違っている、ということになります。
作り手によって使い方は決められている?
こう考えると少し気が楽になりますね。つまり作り手が正しいかどうかを決めているわけです。それに従えばよくって、従わなければ間違っているわけです(XはPによりAと意味づけられる よってPに従うことが正しい)。
しかし、本当にそうなのでしょうか。実は面倒だからとやけに厳しく禁止していることってないでしょうか。他にも自分に都合がいいから認めているっていうこともないんでしょうか。
なんか沢山ありそうですね。
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状況で決まるだけで正しくなるのか ~道具の正しい使い方と状況による決定【おもしろい哲学】 - 日々是〆〆吟味
お話その8(No.0008)