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モスカによる人類の歴史における少数者の支配という必然
モスカとエリート
ミヘルスの本は政党政治の研究なのですが、これには先鞭があります。それがモスカという人なのですが、この人が切り開いた問題はエリート論と言われています。
【モスカ『支配する階級』】
(モスカの本。みもふたもない政治についての記述がたくさんあります)
真のエリートとは異なる、制度の中のエリート
エリート、というと、私などはオルテガの『大衆の反逆』に書いてあった自分に多くを課す優れた個人のことを思い出すのですが、ミヘルスの先輩でもあるモスカはそうした意味でのエリートではありません。そうではなく社会や組織において命令する権利を持った少数者のことであり、いわゆる選別された者、つまり私たちが普段使いしている意味でのエリートです。
【オルテガ『大衆の反逆』】
(これは大衆批判が本丸の本なのですが、そんな大衆に対置されるものとしてエリート/貴族というものを置いています。この場合のエリート/貴族というのは領地を持った血族による支配者のことなどではなく、自らに多くのものを課しながら義務を遂行していく、ある種の理想的な人間類型です。一方大衆もまた普通の人々ということではなく、世に満ちた有象無象のことを指し具体的な人間ではありません。大衆もまたひとつの類型であり概念だと思った方がいいと思います)
人類は常に少数者に支配されてきた
モスカが言うぶんには、人間というのは歴史上常に少数者に支配されてきたのである、とのことです。どれだけ民主的で民主主義が精神だけでなく実際にも行われていようとも、そこで人々に命令する権利を持った支配者としての資格を持つ物は絶対的に少数者でなければならなかった、というわけですね。
モスカはそれを証明するために歴史を振り返り、いかに人類の歴史が少数者からの支配から逃れていないかを説明されていました。その結果どんな時代、社会であってもこの原則は崩れなかった、ということのようです。
宗教的指導者と信徒たち
これを宗教で考えてみると面白いかもしれませんね。たとえばキリスト教でも仏教でも、開祖の人はひとりなわけです。イエス様に教えてもらおうとお釈迦様に教えをたれてもらおうと、それはひとりの人が他の大勢に向かって行うわけです。これは新興宗教でも同じかと思います。
【『ブッダのことば』『新約聖書』】
(考えてみたら当たり前なんですけど、今日まで強い影響力を持つ大宗教も最初はひとりの人の教えなんですよね。私たちはひとりの偉大な人物の教えを受けて生きてきたわけで、それは少数者による組織の支配ともしかしたら似てるところもあるのかもしれません。哲学においてもソクラテスからですしね)
次に信徒が増えてくると直接教えてもらえない人たちが出てきます。そうすると直接教わったお弟子さんが、他の信徒さんたちに教えにくるかと思います。それがまた次の信徒さんたちに伝えられていくとすれば、どの信徒の言うことがより開祖に叶っているのか、という形で選別されていくかもしれません。すると開祖の教えを教える人たちの中にも序列が出来てしまうわけです。
残された者たちの決定者
まぁこれも開祖の人が生きている間はいつか本人に聞けばいいということが原理的に可能だからいいのですが、開祖が亡くなった後にはどうなるのでしょうか。すると伝わっている教えの中でどれが最も開祖の言ってたことに近いかを決めなくてはいけません。こうしてキリスト教でも仏教でも宗教会議が開かれて自分たちの教えの中で正統とみなされるものを決めていきます。
【使徒のはたらき】
(イエスの教えを広めたのは、直接の弟子である12使徒、それもパウロが中心だったそうですが、その意味ではキリスト教の社会的集団を作り上げたのはイエス本人というより使徒のはたらきによると言えるのかもしれません)
ですがこうして決める人たちも、やっぱり信徒全員で決めるわけではなく、一握りの偉い人たちによってしか決めることが出来ません。なぜなら全員呼んで決めるような真似出来ないからです(ここに民主主義の限界があるのかもしれませんね)。そして宗教の場合、大抵非常に高度な倫理的な理念を持っています。その中にはまず平等概念を持っていることが多く、それは政治政党などよりよほど深刻かつ積極的に構成員の中に要求してくることでしょう。
しかしそれにも関わらず、なにかを決めるときには全員を選んで決めることなど出来ず、常に選ばれた少数者でしか決定することが出来ないわけで、こうしたことをモスカは少数者の支配と呼んだのだと思えるのでした。
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お話その309(No.0309)