原因と結果と意味 〜玉ねぎから炒飯、炒飯から玉ねぎ?
あるものから出来るものへ
そうするとそこにあるものは、そこにあるというだけでは、それが何かはっきりしていないと言えるかもしれません。
ですがこれもおかしな話ですね。だって玉ねぎもにんじんもそこにあるわけです。玉ねぎがなにか、にんじんがなにか、私たちはよく知っています。ただその玉ねぎやにんじんが、炒飯になるのかカレーになるのかが決まっていないだけです。
玉ねぎやにんじんから考えるとこれは当たり前のことに思えるのですが、炒飯やカレーから逆算して考えてしまうと、どうもそうは思えなくなってしまうのかもしれません。これを料理ではなくて子供の教育なんかに当てはめて考えてみましょう。
将来と現在
すると将来困るから、今のうちにこうしときましょう、なんて考えが当たり前に浮かんできます。たとえばお稽古ごとなどそうですね。頭のいい子に育って欲しいから幼児期から塾に通わせたりします。この場合は子供を今のままの子供の状態ではなく、将来の育ちきった後の姿を前提として考えているわけです。しかし子供の頃に教わったことが大人になってから活きるのかはわかりません。というより現時点では判断できませんね。だってどうなるかわからないんですもの。
けれどもだからこそ、将来どのように役立つかわからないから習わせておく、という考え方もできます。しかしそれが重荷になることもあるかもしれません。それはあるお稽古ごとXを行うことによってAという利点があると思っていたのに、Bという欠点があった。そして後々の影響ではBが優った、ということになるでしょうか。
うまくいくことと結果からの逆算
もちろんうまくいくこともあります。XからAを得て、結果Zとなることもあるわけです。それは成功された方はみな同じ形になるでしょう。つまり子供が東大に行った(Z)、そのためにはこのようなことをした(A)、何故出来たかといえば親が教育熱心でよく支えたからだ(X)、と。
しかしこの場合、やっぱり結果からの逆算です。炒飯ができた(Z)から、その作り方を紹介するわけです。そして炒飯には玉ねぎが今回入りました(A)。だから玉ねぎは炒飯には必要です(ZはAを含む)。こうなるでしょうか。
可能性と必然性
こう考えると、今度はこちらの方が正しくも思えてきました。つまり結果から考えた方が最初の状態を意味づけしやすい、というわけです。玉ねぎは炒飯に入れるもの(AはZの一部である)。それでいいわけですね。しかし、じゃあ、玉ねぎを見たらそれが炒飯になるかといえば(Aは必ずZに含まれる)、やっぱりそんなことはないでしょう。おそらく多くの方がカレーの方を想像しやすい気もします(AはYに含まれる)。他にも人によって思い浮かべる料理が違うでしょう(Aは任意の対象nに含まれる)。それに別段玉ねぎがなくったって炒飯は作れますしね(ZはA抜きでもZである)。
つまり出来上がったものから捉えると、その材料となったものは必然的に思えるのですが、材料そのものから捉えても、そこから結果の姿までは現れる必要はない気がします。玉ねぎは玉ねぎで、にんじんはにんじんです。そして炒飯は炒飯で、カレーはカレーなのです。それらがお互いに結びつくのはその都度の結果であって、結果から原因は定められても、原因から結果は必ずしも結びつかないように思えるのでした。
ややこしいお話ですね。
次の日の内容
同じことと違うこと ~同じ穴の狢では困る道具の使い方と、正統な使い方と違うことをしないこと【おもしろい哲学】 - 日々是〆〆吟味
前の日の内容
考える、ということと、行動 ~考えることと自分のための行動計画【おもしろい哲学】 - 日々是〆〆吟味
お話その3(No.0003)