前回のお話
ハイデガーと日本人
ハイデガーはとても偉くて、20世紀最大の哲学者なんて呼ばれたりもします。そんな偉い人ですから影響を受けた人たちはたくさんいるのですが、意外と日本との関わりもあったりするようです。
ドイツに留学した日本人哲学者
というのも、戦前日本の哲学者たちのうち、ハイデガーに教わるためにドイツまで行った人たちが結構いるらしいからです。
たとえば三木清とか九鬼周造といった人たちがドイツでハイデガーに教わったそうなのですが、この人たちは日本で偉い哲学者として名が通っています。
【ハイデガー『言葉についての対話』,福田和也『日本の目玉』】
(ハイデガーのこの本は、日本でとても偉かったドイツ文学者の手塚富雄という人がハイデガーのもとを訪ねて会話した内容がもとになっているのだそうです。ここでハイデガーは九鬼周造のことを思い出深く話してたりします。そして文芸批評家の福田和也はそれを踏まえて、ハイデガーにとって最も恐ろしかった哲学者は九鬼周造だ、というようなことを下の本で書いていました)
そのためなのでしょうか。どこかで読んだ本の中でこうした戦前の日本の哲学者たちのことをハイデガー亜流といったように書いてあったような覚えもあります(なんの本だったんだろう…)。それが正しいのかろくに日本の哲学者の本を読んでない私にはわかりませんが、同時代最高の哲学者であったハイデガーを意識して日本の中で哲学していた哲学者たちはいたようです。
和辻哲郎と『風土』 〜時間に対する空間
たとえば和辻哲郎は『風土』という本を書きました。これは文明をその土地の風土によって説明し規定しようとしたものです。なんだか環境について書いたような本にも思えてきますが、これがなぜハイデガーを意識して書かれたものなのでしょうか。
【和辻哲郎『風土』】
それは『風土』が土地を通して人間を説明しようとしたものであって、つまり空間によって人間を説明しようとしたものだからです。ハイデガーは『存在と時間』のおいて、人間を時間的存在として捉えました。つまり和辻哲郎はハイデガーの向こうを張って時間ではなく空間で人間を捉えようとしたのですね。わかりやすく言えば向こうが時間ならこっちは空間だ、というわけで、相手の分析しようとした材料である時間の反対とも受け取れそうな空間によって同じ人間を分析したわけです。
そして『風土』はとても面白い本です。ヨーロッパや日本の風土=気候や土地の様子からどのような人間類型が現れてくるか、ということを説明しようとしています。ただ、それが本当なのかはちょっとわかりません。哲学的な分析であって大変魅力的なのですが、なにせ戦前のものですし、科学的な証明もあるわけではありません。
【小谷野敦『日本文化論のインチキ』】
(この本の中で和辻哲郎の『風土』は日本文化論の源流となったものでなんの根拠もないデタラメだ、みたいなことが書いてあったかと思うのですが、それが本当かどうかも私にはわかりません)
しかしひとつの哲学的認識として、ハイデガーに影響されて反対の形から人間を捉えようとした日本的哲学として、和辻哲郎の『風土』は今でも面白く読めるような気がします。
次回のお話
お話その288(No.0288)