日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

中世ヨーロッパの暗黒時代のイメージと裏腹に、高度に維持・発展させられていた中世論理学の意義と、物事の認識のために必要な基礎となる論理学と数学との違い

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前回のお話

アリストテレスの時点で相当の完成を達していた道具としての論理学=オルガノンと、現在まで残るアリストテレスの著作における数奇な運命の経緯 - 日々是〆〆吟味

 

中世における論理学の意義と物事の認識の土台となる論理学と数学の違い

分析論前書 分析論後書 (新版 アリストテレス全集 第2巻)
 

論理学と基本教養

アリストテレスによって古代にも関わらず非常に高度に完成されていた論理学ですが(他にもアリストテレスは色々すごいんですけど)、この論理学を中世では基本的なものとして考えたようです。中世当時の教育機関(大学の先祖みたいなものかな)において自由七科というものがありまして、その内容として基本的な三学が文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽となっています。このうち三学というものが基本教養課程みたいなもので重視されていたそうで、特に論理学というものはどんな場合にも必要となってくるようなものとして捉えられていたそうです。

 

アリストテレス全集1,2】 

(この中に含まれる5作品でオルガノンと呼ばれ、アリストテレスの論理学の著作とされています)

 

現代の数学のような中世における論理学の地位

その論理学の地位というものは現代における数学に比するほどだったそうです。現代に生きる私たちは科学の恩恵を全身で受けていますが(コンビニで買う菓子パンだってあらゆる科学的成果の集約としてコンビニに並んでるって言えないこともないですもんね。トラックで運んで冷蔵庫にも入れてたりするだろうし、POSで管理してレジ打ちするんですから)、その科学はまずほとんどが数学的な土台の上になりたっているかと思います(断言できるほど私は自然科学に詳しくない)。なぜ数学が土台となっているかといえば、そこで計算された結果は必ずその結果に限り正しいわけで、同じ計算結果を別の分野に応用してもちゃんと正しく使えるからです。そのためある科学分野の結果を別の科学分野に取り込んで発展させていくことが可能であり、それは数学という共通する土台を持っているからですね。

 

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こうした現代における数学の役割を中世においては論理学が果たしていたそうです。それは数学がまだそこまで発展していなかったからかもしれませんし、アリストテレスの論理学が非常に優れていたためそこを役立てる方が便利さに直結していたのかもしれませんし、ガリレオの時代になって批判されるようにアリストテレスの権威があまりに高かったからかもしれません(とはいえアリストテレスイスラーム経由で入ってくるまでに大分時代がありますけども)。

 

 

ともかく中世においては論理学というものがかなり高く評価され、また独自に発展してもいったようです(山下正男が書いてた)。そして様々な学問の土台としても論理学がおかれていたため、なにごとも数学的にではなく論理学的に判断されていたようでもあります(よくは知らないけれど)。

 

【ブロック『王の奇跡』『封建社会』】 

(このマルク・ブロックという先生は戦前フランスで中世史のとても偉い先生だったのですが、この本の中にちょっと面白い既述がありまして、どこかで歯がすべて金で出来ているという人物がいるらしいけどそれはなぜか、と当時の知識人たちが侃侃諤諤の議論をしたそうなのですが、誰も直接行って確かめた者はいなかった、というものがありました。これはいわゆる実証精神の欠如とみなされるかもしれませんが、同時にいかに当時論理によってのみ物事を捉えようとすることに慣れていたのか、という逸話のようにも思えました。といってもこの本は全部は読んでないんですけどね。後の分冊されたものはブロックの代表的なものとして有名ですが、こちらは読みました。面白かったです。ただ私に中世の知識がないのでさっぱりわからなかったのも覚えています)

 

【中世思想原典集成19】 

(この本の序説の部分に山下正男が中世の論理学の意義を書いていました。こうしたものを読みますと、中世末期にはかなり科学的な態度や考えが中世思想的な内部にも現れてきたんだなぁ、というようなことがわかるような気もします。ただ難しいんで全然わかんない)

 

論理的世界観としての中世 〜神は論理の矛盾と共に?

そのため中世的世界観は論理的世界観だと言えないこともないのかもしれません。キリスト教的な神の問題も論理的な問題と言えなくもないですしね。神の問題を考えると必ず矛盾した点が出てきてしまうので、それをどう考えるためにも論理というものが必要だったわけです。私たちの生きている現代という世界が数学によって技術的に支えられているように、きっと中世は論理的に神学的世界が支えられていたのかもしれませんね。

 

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論理と物事の決着としての経験的世界観

しかし後々カントが説明しましたように、論理だけでは最終的な決着というものがつきません。そのため人類の思索は論理から数学へ移るわけですが、その前に観察と実験があります。まず観察してデータを取り、そのデータから一定の法則を導き出し、それが正しいか実験で確認する。そしてその法則を数学というものを使って表すことによって、森羅万象の法則を経験から導き出して一般法則にまですることが出来るわけですね。この表すところが中世では論理学であったわけで、カントから遡って考えるなら、土台の部分に既に問題があったわけですね。

 

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おまけで考えてみるならば、現在Twitterなどで論理だけでお互い正しさを主張しているのは、なんだか中世的な在り方と似ているような気もしてきます。昔、文芸批評家の絓秀実がポストモダンって中世に似てくるように思う、なんていってるの読んだ覚えがありますが、なんだかそれは当たっていたのではないかと思わないでもありません。

 

次回のお話

中世とは論理学上位の価値観の世界であったが、暗黒時代と後世に呼ばれた中世から脱出することとなったアリストテレス的ではない新しい宇宙観 - 日々是〆〆吟味

 

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お話その249(No.0249)