前回のお話
天才と狂気の関係性と、哲学の契機となる自分自身に抱え込んだ矛盾 ~天才が狂気の淵へと追い込まれる人間の認識能力を超えた問題への苦闘 - 日々是〆〆吟味
矛盾や認識不可能な領域への思考と哲学や思想への日常的な契機
哲学や思想と矛盾や認識不可能な領域
矛盾を持つことや認識不可能な領域に目を向けてしまうことが思想や哲学の始まりとなる可能性はありえそうです。当たり前のことを当たり前と捉えている限りは何も新しいことなど考えなくてもいいわけですからね。今まで言われていたことをそのまま聞いていればいいわけです。しかしそれが不可能になってくるものだから、時に人は無理を承知で自分で考えていかなければなりません。そうした時がデカルトの言う、一生に一度ある全部ひっくるめて考え直す時期なのかもしれませんね。
【デカルト『省察』】
(デカルトがそう言ってたのこの本だったかなぁ〜)
解決不可能な問題と理性の宿業
でも、不思議といえば不思議ですね。矛盾や認識不可能な領域なんて、そもそも考えて答えの出るようなものでしょうか。解決可能な問題は、考えて答えの出る問題であるから解決するわけであって、答えの出ないような問題など考えてどうなるのでしょうか。
しかしそれもまた人間の思考能力の限界と同時に、どうしても向かってしまう宿業のようです。カントは理性は解決不可能な問題であってもその問題に対して考えてしまうものだ、と述べていたかと思いますが、まさにその通りで知ることや理解することが不可能な問題であるにもかかわらず考えてしまうことはあるわけです。
例:ー好きな人はなにを思うだろう
身近な問題でいうと、好きな人が誰を好きに思っているか、とか、自分の振る舞いが人にどう見られているか、といった問題は考えたからといって答えの出るものではありません。相手が自分のことを好きかどうかはいくら考えたってわからないのです。一番手っ取り早い方法は本人に聞いてみることですが、そんなこと出来る人はわざわざ悩んで考えたりはしないでしょう。この場合事実としては確かめうるが、その行動は封じられている、というふうに考えてみることも出来ます。
また聞いたからって本当のことを言ってくれるとは限りませんね。好きな人がめちゃくちゃなプレイボーイで何人もの相手と同時に付き合いながら、私のこと本当に好き、とこちらが尋ねたとして、もちろんだよ、という言葉を真に受けることが難しい場合もあります(真に受けれた方が幸せなのかな…?)。この場合は人の心は結局わからない、というわけで、認識不可能な他者という存在が出てきます。するとやっぱり知ることの出来ない領域について思い悩んで考えなくてはいけなくなってしまいますね。
【柄谷行人『探究』】
他人事のような論理的解決と、我がこととして内包される矛盾
こうしてくると矛盾や認識不可能な領域というものは日常でもありえないわけではないわけですね。しかしだからといって考えても無駄だよ、といって考えなくてすませられるのは中々難しいかと思います。相談でもしてその問題と関係ない人は軽くそう言うかもしれませんが、その人はそもそもそんなややこしい問題に絡めとられていないから、単純に竹を割ったように論理的に説明して終わらせることが出来ます。
しかし人間が人間らしく苦悩しなければならない理由は、こうした論理的に説明出来てしまうことを振り捨てて悩むところにあるのかもしれません。そしてその矛盾や認識不可能な領域を不可能なままに徹底的に論理によって考えることによって、当たり前のどこにでもあるような認識とは異なる新しいものを生み出していくのかもしれませんね。
【ヨブ記】
(聖書に正典として載せられているこの話だって、理屈もへったくれもありませんものね。この理屈でどうにもならない、ということこそもしかしたら人間の精神や思考にとって最も危険な問題なのかもしれません)
次回のお話
人間が経験することによって認識が可能な科学的に存在しうる世界と、経験を超えた領域へ哲学的思考によって捉えられる世界の違いによる、科学者と哲学者の相違 - 日々是〆〆吟味
お話その244(No.0244)