日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

人間の理性をもってしては神を認識することはかなわない限界と問題 ~神は何者であるかのように理解できず否定によって捉える=否定神学と同時に、人間の理性でとらえきれぬために闇のようになる

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前回のお話

 

 神の認識のための人間理性の限界 〜神は何者であるかのように理解できず闇のよう

中世思想史 (平凡社ライブラリー)
 

人間の認識能力の限界と扱わざるを得ない問題

人間の認識能力や思考能力というものに限界があるらしい、もしくは論理によって捉えられる世界というのは経験的な後ろ盾がないと確実に確かなものだとはいえないらしい、ということをカント先生は教えてくれるのですが(読んでもほとんどわかってないけど)、それでも考えなくてはいけない、というのが人間の持つ理性というものの業のようでもあります。

 

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そんな中色々とわからないにもかかわらず考えなくてはいけない問題がありますね。そしてカント以前、近世以前の中世においてそうした問題の最も重要なものが神についての考えでした。というより中世におけるこうした神学論争を否定することによって近世哲学は生まれてきますので、カントの哲学も同じように中世的問題を理性の隘路として乗り越えた、というか、人間そのものに即して基礎づけたのかもしれません。

 

【カント『純粋理性批判』】 

神という大問題

しかしそれはそれとして、中世においては神をどう捉えるかということが第一の哲学的問題でした。それはなにも中世神学(もしくは中世哲学)というだけでなく遡ればプラトンアリストテレスにまで至ります。というのも物事がなんであるかの究極的説明としてのイデアを最終的に追求すれば最後のひとつのイデアが現れるはずですし、アリストテレスは究極の根源を求めるような営みを第一哲学とか呼んだりもしているからです。ここから様々な思想的展開が発展し、キリスト教と合流し、キリスト教化した問題をギリシア的な問題と哲学を混ざり合わさるような形となって神という究極の問題へと向かっていくことになるようでした(ちょっと自信ない)。

 

【リーゼンフーバー『中世思想史』】 

(この本とかに説明されてるかなぁ。私は元となる全集の解説などで読んで教えてもらいました。解説って役に立つもんですねぇ)

 

認識不可能な神への認識方法 〜神は何者でないことによって、神を知る=否定神学

しかしカントの考えでは理性では神というものは経験的に確かめることが出来ないから、完全に知ることが出来ません。けれども中世の哲学/神学を読んでみると、そんなことは織り込み済みのようにして考えているようでもあります。

 

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というのも、神が何者であるのか、ということを問う方法として否定神学というものがあるというのです。それはどのようなものであるかといえば、神は◯◯ではない、神は××ではない、神は△△ではない…と否定していくことによって、最終的になにではないかを通して定義できないもの、認識できないものとして捉えようとしていたりします。これは人間に捉えられない存在として神を想定しているからこうなるのでしょうね。

 

神は認識出来ないが故に闇となる

そしてまた、神は闇である、というような説明もされます。あれ、なんで神さまが闇なんだろう、創世記で光あれ、なんて言ってたんじゃなかったっけ、なんて思ったりもするのですが、確かに神は光でもって世界を照らし人間に理性の光も授けた、しかしその人間の理性においては神を捉えるには神は大きすぎる存在である、そのため人間の理性からすれば神は捉えきれないため姿が見えない、そのため人間の理性からすればその姿を一片たりとも知ることの叶わぬ闇のようなものである、というわけです。いわば神さまというものは理性の光というものが届かないブラックホールのようなもので、人間の側からはなにも見ることが出来ない、というわけですね(それにしても神が闇であるなんて、なんてゲーム的なお話なんでしょう。ちょっとわくわくしてきそうです)。

 

【中世思想原典集成】 

(このシリーズの中のどれかにこうしたことご書いてあったのですが、あまりに膨大で忘れてしまいました)

 

理性の限界と哲学の問題

そしてこれはカントが基礎づけたように、人間の思考能力(=理性)によって捉えられる範囲を超えたものは確実に知ることは出来ない、という問題設定とも重なっているようにも思えます。さらにまた哲学というものはこうした闇のような本来認識不可能な問題を論理という竹槍みたいな武器だけを持って挑むような営みでもあるかもしれません。問題の中心となる闇は知ることが出来ないから、周りの見える範囲(理性の光が差し込む限りで)をぐるぐる回ってなんとか答えとなりそうなものを浮かび上がらせようとしているのかもしれませんね。

 

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しかし世界のすべてが調査可能であり、データ化されてしかも各々の角度までも覆うことが出来る、そんな真似は今のところなっていません。そして多分すべてを経験知と化して確実な答えを得ることの出来るようにすることも、おそらく不可能な気がします(おそらくそんなことが可能になったら人間にとって最も重要な自由が失われてしまう)。すると哲学という営みはやはりどこかで行われ必要となってくるのかもしれず、経験知のチャンピオンである科学に馬鹿にされながらも、哲学されることは続けられていくのかもしれませんね。

 

なんか神さまの話なんかしてたから宗教の勧誘みたいになってないかなぁ〜。ちょっと心配。

 

次回のお話

人間の物質としての人体や脳と総合的な関係性の総体としての自我や私という概念 ~科学による最終的な物質への究明と、認識できないものへの理解の仕方としての概念化 - 日々是〆〆吟味

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 お話その240(No.0240)