前回のお話
事実とは異なる意味の現れ方:事実を超えて仮定される意味概念 ~人間の精神の事実からなるメカニズムと、あたかも本当にあるかのような〝私は私〟に対する想像力
人間の精神にオリジナリティはあるの?
人間や人間の精神のオリジナリティみたいなことを考えてみますと、つきつめるとそんなものどこにあるのかわからなくなってきそうです。私は私、といってられるのは単純ですが力強い態度かもしれませんが、かといってそれだけで済ませると単に自分でそう言っているだけの人になってしまう可能性もあります。自分のオリジナリティみたいなものを過剰にアピールする人はオリジナリティある人というよりオリジナリティある人と思われたい人のようにも見えてきたりもしますものね。それはつまり自分自身がオリジナルな存在であるというより、他人からオリジナルな存在と認められることによってオリジナリティを獲得してしまうわけで、価値の決定者は他人に依存しているということかもしれません(いじわるな言い方かなぁ)。
外から与えられ形作られ、組み合わせにより新しいものを生み出す人間の精神
自分自身のオリジナリティみたいなものは事実として考えてみようとしても、精神に与えられるものが外から来るのだとしたらオリジナリティも遡れば外のものに由来するかもしれません。そうした外のものを組み合わせてオリジナリティを発揮したとしても、それは組み合わせの結果でしかないのだとすれば、その組み合わせを取り出せば誰でも可能となるはずです(これを制度化したものが科学ってことでしょうね)。そこには組み合わせた人の価値は、最初にその組み合わせを見つけたというだけにしかなりません(だから科学の世界は一番乗り競争なんだそうです。そして人文/社会科学と違って古典的科学者の書いた本は誰も読みません。なぜならそのエッセンスだけを抜き出して使いやすい形で後世に整理されているからのようです)。必要なのは生み出された結果であり、その結果を生み出した人にはあとは用無しとなってしまいます。オリジナリティとなるはずが外から得たとのを素材とした操作にしかならなくなってしまいます(なんだか悲しい)。
(以前科学的根拠ってどんなもんか書いてみたことがありました)
【ヤング『アイデアのつくり方』】
(この本面白くて、薄っぺらくてすぐ読める話ですが、アイデアや発想というものを非常に明確にわかりやすく書いてくれています。簡単に言うとアイデアや発想っていうのは持っている情報の組み合わせなんだ、ということなのですが、今回のお話と関係しそうなので載せてみました。100ページくらいしかないので本当にすぐ読めます。しかしその価値は死ぬまで役立つという素晴らしいものです)
事実を超えるものとしての〝私〟という存在の認識
そうなると〝私は私〟となるアイデンティティやオリジナリティというものは、事実とは異なるところで形作られていなければならなくなります。私たち人間というものが外から与えられた情報によって成り立っていて、自分で考えたり生み出したりしたと思っているものが単にそうした外から与えられたものを素材とした操作の結果でしかないとすれば、人間の存在というものはこうした材料を出たり入ったりしているというだけの事実で終わってしまいます。
たとえば人間は食べてうんこする生物なわけですが、単にそれだけの存在だという風には中々思えないわけです。しかし物理的な働きだけを並べてみるならば、人体というものは食事によって栄養とエネルギーを獲得し、運動によって消費する、それだけで終わってしまうかもしれません(詳しくないからよくわからないけど)。そのため食べることもトイレいくことも単なる人体のメカニズムだと思って目の前の料理を食べて毎日を過ごすわけでもありません。美味しいか不味いかということもあれば、綺麗な身体になりたいとか、運動で記録が出せるようになりたいとか、とにかくお腹いっぱいにしたいとかあるわけです。ですが人体の働きからいえばそんなもの全部どうでもいいことです。食べてうんこして、身体の働きが維持されていればいいのです。
【キャノン『からだの知恵』】
(あんまり関係ないかもしれませんが、この本は人体がなぜバランスを保っているのか、ということを考えていて、今のところその理由はわかっていないが、なぜかこうした恒常性がある、といって恒常性=ホメオスタシスというものがある、と結論しました。これと同じで事実として積み重ねても分からないがなぜかある働きをする場合、それをひとつの概念とすることがあるわけですね。しかしその概念は事実ひとつひとつから論理的に演繹されて出たものというわけではなく、ある種の論理の飛躍によって生み出されたところがあります。きっと人間の精神についてもこうした側面があるんじゃないかな、と思ったりもするのでした)
事実と意味の複雑な関係
つまり人体であれ精神であれ、事実というだけでは意味が生まれてくるわけではない、ということですね。それは単にそれだけの事実でしかないわけです。しかしそれらの事実は事実であるという点で間違いなく動かし難い価値があるわけです。考え方を変えたからって事実は動いてくれません。事実は人間の意思や判断と関係なく普遍的にそこにあるままになってしまいます。
【ドゥルーズ・ガタリ『哲学とは何か』】
(フランス現代思想の代表格のひとりであるドゥルーズは、哲学とは新しい概念を生み出すことである、と考えたそうです。しかし私はこの本読んでません。読まなくちゃいけない、読みたい本はたくさんありますね)
そのため人間は事実を目の前にしながらもひとつの飛躍をもつことになります。つまり〝私は私〟であるところのアイデンティティやオリジナリティというものは、人間精神から考えればほとんど事実(人間精神は外から中身を与えられ、生み出すものはそれらの組み合わせでしかない、など)からは論理的に導き出せる結論ではないかもしれません。しかし、そのようにあるものとして私たち人間は考えなくてはまともに生きていけないわけです。そのため人間は健康的に生きていくためには一種のフィクションを持ち得ねばならないことになります。そして〝この私〟に対する特権的な地位、唯一絶対の私であるオリジナリティというものは、誰しもが持たなければならないフィクションとして人間精神にとって抜き差し難く組み込まれているのだ、という風に考えられるのかもしれません。
ついでに言うと私と同じように神とか社会とかいうものも同じなんだろうな、と思いもするのでした。
…う〜ん、最近わけわかめな難しい話になってしまっているけど、今回は特別わけわかめなものになっているような気がする…大丈夫だろうか…
次回のお話
アイデンティティとはその意味をわかりやすく簡単に言うならば人間の精神をまとめあげる機能である ~種々雑多な意味ある情報を〝この私〟によってばらけないようにまとめる精神機能 - 日々是〆〆吟味
お話その237(No.0237)