前回のお話
オリジナリティの意味する偶然的結果としての〝この私〟と必然的人生としての宿命 ~決して一致しない個々の人間精神を越える唯一の存在として認識してみなされる〝この私〟 - 日々是〆〆吟味
人生の選択としての可能性と宿命:もしくはヘーゲルにおける無限と有限 ~人間は無限なものとして可能性が開かれているが、何者かになることによって有限な存在となり、そして有限なものを積み重ねていくことで再度無限な存在となる
人間の人生と選択
人間が何者かであるということは人生の結果として現れるのだとしたら、じゃあ選べないのか、というような疑問も浮かんできますね。小林秀雄は宿命として引き受けることこそ成熟した精神の在り方だと考えたかもしれませんが、ヘーゲルというもっと昔の哲学者も似たような問題を考えていてよくわからないような気もするけど面白い考え方を述べていました。
【小林秀雄『小林秀雄初期文芸論集』】
人間の成長と『精神現象学』
ヘーゲルの主著というものは4冊あるとされているのですが、その最初の作品が『精神現象学』というものです。どれも難しいんですけどこれまた難しい本で、読んでもさっぱりわかりません。ただどうもこの本は誰が読んでも難しいらしく、訳者の先生たちも難しい難しいと言って訳してくださっているようです(そうして日本語になったものを読んでも難しい)。
【ヘーゲル『精神現象学』】
(長谷川宏訳が一番わかりやすく読みやすいと評判らしい。けど読んでわかるかはまた別のお話。え~ん)
さてそんな『精神現象学』ですが、これは簡単に言えば人間の精神がどのように成長していくかということを述べた哲学です(細かくは聞かないでね。わかってないから)。その中で人間の可能性のようなものも扱われているのですが、これがちょっとややこしく少しひねくれたような書き方をしております。
無限なものとして開かれている、人間の最初の姿
それは人間というものは最初無限なものとして開かれている、というような言い方です。どういうことかというと、人は大体年をとると職業を持ちますね。それは作家とか芸人とか花形のものもあれば、公務員とか先生とかいうものもありますし、家具屋とか旋盤工とか経営や職人にあたるものもあります。
こうした職業についた状態を、大体世の中ではその人の地位や立場というだけでなくその人の在り方そのもののようにも捉えます。そして先生なら先生としての振る舞いを求められたりもするのですが(だから教師のロリコンはより許されないわけですね)、同時にその人は先生なり芸人なり旋盤工なりになっているわけです。この時点でヘーゲルはその人物はひとつの限定された存在になった、と捉えるようです。
どういうことでしょうか。職業につく前の状態を考えてみましょう。子供とか学生の頃は、将来何になりたいとか色々思い浮かべたりするものですね。それは楽しい空想でもあるかもしれませんし、重い陰鬱な想像であるかもしれません。しかしその時点ではその人はなにかの職業人として自分自身を規定しているわけではありません。今述べたような職業のどれにでも就こうと思えばつけるわけです(運と実力の必要なものはなりたくてもなれないけど)。つまりひとつの限定した存在に自己が形成されていない代わりに、可能性として無限に開かれている、というわけですね。そのためヘーゲル先生は人間は最初無限なものとして存在し、有限なものへと変わっていく、というような言い方をして説明されています。
有限なものとして限定された形で期待される人間の姿
しかしさらにヘーゲル先生は続けます。それは人間は確かに一度有限なものとして自己を規定することになった、そして無限の可能性として持っていたものを捨てた、しかし有限なものとなった人間はさらなる有限なものを獲得しようとすることができる。そのことによって人間は有限なものとしてありながら先へ先へと進んでいきどこまで行けるかもわからない、新しい無限な存在へと変化したのだ、というわけです。
その結果人間は無限なものとして生まれて有限なものとして育つ。しかしまた有限なものをいくらでも重ねていける存在としてまた無限なものへとなる。すなわち人間とは本質的に無限の存在である、というようなことを書いていたような気がするのですが、ちょっとこの通りの理解で大丈夫なのかは自信がありません。けど、なんとなく、ふーん、そんなもんかなぁ、と面白く思った覚えがあるので今回書いてみたのでした。
追記
どうもぺらぺら読み直していたら無限者と有限者の話は『大論理学』だったような気がします。
次回のお話
事実とは異なる意味の現れ方:事実を超えて仮定される意味概念 ~人間の精神の事実からなるメカニズムと、あたかも本当にあるかのような〝私は私〟に対する想像力 - 日々是〆〆吟味
お話その236(No.0236)