日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

頂点の時代という歴史的段階によって生み出される大衆 ~絶大で強力な力を持ちながら制御する力が及ばず持て余す不安と戸惑い【オルテガ『大衆の反逆』】

スポンサーリンク

スポンサーリンク

 

前回のお話

Loading...

 

f:id:waka-rukana:20200810011133j:plain

大衆の生まれた頂点の時代 〜強大な力と戸惑い

大衆がごく普通の何者でもない人だけでなく、偉いはずの様々な専門家であっても免れないのだとすれば、大衆なんていうものは誰か特定の層を指すのではなく現代人すべてにあてはまるもののような気がしてきます。そもそも私たちは大衆から逃れえることが可能なのでしょうか。それ自体がもしかして不可能なのではないかと思えてきますが、本来近代っていう時代は人間が進歩して現れてきた時代だと思われていたはずです。それなのにあまりな話のようにも思えてきますね。

 

頂点の時代と不安

オルテガはこうした進歩という考え方の一部を取り出します。それは自分たちの時代こそ、過去の時代に比して最も良い時代だと感じていること、だといいます。オルテガに言わせれば、今まで自分たちの時代を最もいい時代だと考えた時代などなかった、それはルネッサンスであっても同じで、自分たちは過去の時代の上に成り立っていると自覚していた、しかし現代(20世紀初頭ヨーロッパ)では自分たち以前の過去の時代はすべてみすぼらしく貧しい時代としか映らない。常に人間は未だ成らず、と自分の時代を自覚していたのに、ついに成れり、という自覚を持つ時代にとうとうなったのである。

 

f:id:waka-rukana:20200810002551j:plain

 

しかしだからといって自らに安心しきった自信を持つことも出来ないでいる。自分たちが頂点の時代に生きていると感じながら、しかしそれはこれからの歴史の出発点でしかなくこれからどうなっていくのかはまったくわからないでいる。そのため非常に強力でありながらその力に恐れ、自らの運命に自信が持てないでいる。それは、ある意味では他のあらゆる時代に勝り自分自身に劣る時代、ということができるだろう(←斜線原文)。

 

オルテガ『大衆の反逆』】 

強大な力とその制御

読めば読むほどなんとも陰鬱な気分にしかオルテガ先生はさせてくれませんが、ともかく私たちの生きている近代という時代が過去と比べても非常に発展した時代/社会であることは間違いないかと思います。オルテガが『大衆の反逆』を書いてから100年近くしかたっていませんが、その後の発展もものすごいものです。それは間違いなく力が強くなっていることを意味しますが、しかしその力をどうして使えばいいのかわからないということもうなづけるかと思います。過去には米ソ冷戦でいつ核戦争が起こるかと真剣に問題とされていましたが、今は米中の摩擦がどうなるかわかりませんし、かといって単に二つの国の関係だからと気にせずにいるには波及する影響力が大きすぎて無視できません。核も兵器としては禁忌ですが、原発は故障しても変わらず廃止まで出来ません。原発が悪けりゃ自然発電だ、と言ってもグレタさんが叫ぶように環境問題は回避できませんし、一国の環境大臣が明確な指針を出せるわけでもありません。同じような対立や問題でも、あまりに力が強大すぎて一歩間違えば本当に世界が危機に陥るかもしれないなんてことは、きっと歴史上なかったのです。いざとなれば未踏の地に逃げればよかったのですが、最早地に満ちよ増えよと世界に人のいない土地はなくなってしまいました。すべて誰かの権利下にあり、無断で移動などできません。確かに人類はかつてないほどの力を有し、まだまだ伸ばしていくようにも思えながら、その力をどうして制御して使っていけばいいのかはオルテガから1世紀近くたっても解決されていないままのように思えます。もしかしたらそもそも出来ないのかもしれません。

 

f:id:waka-rukana:20200810002726p:plain

 

近代社会と合理性

というのも社会の問題は合理的(もしくは数学的)に対処するだけでは切り捨てる人がたくさん出てくるからですね。近代合理主義社会の原点はプラトンの『国家』にあるとも言われますが、それは合理的な社会像を描きますが現実化すると大抵とんでもない抑圧社会となって、ユートピアのはずかディストピア(ユートピアの反対)になってしまうそうです。しかしプラトンに端を発するヨーロッパ的合理性こそ近代の原点。あらゆるものを合理化することによって科学も資本主義も生まれたわけですから否定は出来ないのですが、同時に社会や人間まで数字で判断してしまうのでディストピア的な側面を社会に内包してしまうのかもしれません。それどころかそうした資本主義や人間の物化に対抗すべく生まれたマルクス主義が、まさに国家としてはディストピアそのものになってしまったのですからこの根深さは善意で覆せるものではないのかもしれません。

 

プラトン『国家』】 

(古代ギリシアにおいて理想社会を構想したもの。しかしその理想社会が合理的すぎて、現実化したらむしろ全体主義社会みたいになってしまう危険性も指摘される。にもかかわらずヨーロッパ型理想社会はプラトンの系譜をひく)

 

オーウェル『一九八四年』】 

 

そしてそうした力を持ち、頂点の時代と感じられた時代にこそ大衆が現れてきた、ということは必然なのでしょうか。オルテガを読みながら考えてみると面白いかもしれませんね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/24/063002

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

お話その167(No.0167)