禁欲と贅沢が必要な時代の違い 〜成立と活発化の燃料の違いでしょうか
ウェーバーとゾンバルトの考え方はまるで逆だと思いますので、さぞや同じ雑誌で論考をあげていた時には意見の対立があっただろう、と、勝手に想像してしまいますが、そんな関係が実際にどうだったかは知らないのでなんともいえないのでした。社会学史とかになるとこんなこと調べて書いてくれるのかな。でもそんなところまで読むようになれないだろうなぁ。ゾンバルト、読んでないのいっぱいあるし。
ウェーバー流禁欲的経営者
それはともかく、ウェーバーの考え方は宗教的動機による資本主義の成立ですから、かなり禁欲的です。ウェーバー自身も資本主義の精神を持つ資本家は世俗内禁欲者と呼んでいたはずですからね。労働が神の意にかない浪費も戒められるものなので、無駄遣いすることなく新たな労働、事業投資へと向かうから資本主義は成立した、との考え方でしたね。それだけでなく、実際的にもどんぶり勘定で無駄遣いの多い会社は潰れてしまいます。細かく細かく配慮して、不必要なお金は使わず削り、その上で重要かつ必要なポイントには資本を注ぐ。こうした態度抜きには繁栄はないかと思います。先日読ませていただいたブログに
徳川家康と岩崎弥太郎 ―紙一枚たりともおろそかにせぬ男たち― - 書痴の廻廊
徳川家康が紙一枚を無駄にせず庭まで追いかけた話を紹介されていましたが、これこそウェーバー流の資本主義の精神ではないでしょうか。世俗内禁欲者と呼ばれるほどの徹底した節約志向ですね(岩崎弥太郎も同じ精神のようです。渋沢栄一とは違っても、日本資本主義を生んだ者として通底する精神はあるんでしょうね)。やっぱり天下をとるくらいになるには、あらゆる点で細かく配慮が必要になってくるのでしょうね。
ゾンバルト流享楽的消費者
これに対するとゾンバルトの考え方は全然違います。むしろ紙一枚くらいじゃんじゃん使ってしまえ、とでもなりそうです。無駄遣いすればするほど生産と消費の回転はあがり、資本主義の運動は活発化するはずだからです。今でも政府は消費の喚起を云々、とよく言っています。お金は使ってくれないと経済は回らないようですね。禁欲なんてもってのほか。贅沢こそ必要になってきます。
この2つの考え方についてはどう捉えればいいのでしょうか。どっちかが正しくて、どっちかが間違ってるんでしょうか。
どうもこれが資本主義の発展段階によって態度が変わってくるようなのです。
資本主義の発展段階と求められる態度の違い
資本主義というものはいきなり生まれるわけではありません。アダム・スミスが考えたように分業と機械の発達によって生まれたのだとすれば、その前は職人による生産の時代ですね。それは中世、封建時代であり、経済的には農業主体です。農業=土地生産が最大の富の源泉であったから、土地を抑えた封建領主=貴族が偉かったわけです。それが産業生産が富の源泉となったので工場経営者=資本家が偉くなったのでした。
となると、資本主義成立時期というものは偉いのは貴族なのです。資本家は金持ってるけど、新参者なのです。成金なのですね。そして周りは封建時代に出来上がった様々な制度によって取り囲まれています。その中で資本家はただ儲け主義だけでは認めてもらえません。まだ天下はとっていないのです。天下をとるためには豪放磊落なだけでは信長のようにどこかで裏切られてしまうかもしれません。家康のように執拗なまでの用心深さが求められるのかもしれません。こうした環境では宗教的動機を持った人の方が徹底した自己規制が出来そうですね。
つまり資本主義成立時期は、農業中心の社会体制でした(と思う。誰かはっきりそう言ってたかな)。その中で資本主義を立ち上げていくためには宗教的なまでの倫理観を持った禁欲的なまでの人物が必要でした。
しかし一旦成立した資本主義の後には、もう農業中心の社会階層は存在していません。いや、残っているかもしれませんがかつてのような覇権は握っていません。となると資本主義の運動に沿って行動した方が上手く経済は活発化するし、成功する人も増える、ということになるのではないかと思います。
つまりウェーバーの考え方は資本主義以前、それも近代資本主義以前の農業中心の社会から資本主義を成り立たせるために必要な条件であり、ゾンバルトの考え方は一度成立してしまった後の資本主義をいかに活発化させるか、という条件の違いであるようにも思えるのでした。
そんなわけでウェーバーは近代初期にはよく研究され、近代後期になると、今みたいにゾンバルトが復活してくるのかもしれませんね。でもゾンバルトも資本主義の成立条件として考えたように読んだ覚えがあるんですけど、むしろその後に役に立つっていうのも面白い結果ですね。
気になったら読んで欲しい本
【ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』】
ウェーバーはプロテスタントカルヴァン派の倫理から生まれた資本主義の精神を持つ資本家のことを世俗内禁欲者と述べていたはずですが、その節約ぶり、自己研鑽、自己規制と、宗教的な修行のようにして仕事をする、ということだったような気がします。ちょっとあやしいので気になったら読んでみてください。
ウェーバーのこの本は、今みたいに働くことが嫌になってる時代に読まれる価値はあるように思います。でも、経営者にも読んで欲しいけどな。ブラックな企業は本来資本家が持つとみなされた世俗内禁欲を社員に強要し、自分は禁欲的じゃないから起こるのかもしれませんからね。社員がサボって社長が禁欲的ならいいのかもしれませんが、それは労働環境の問題もあって、初期社会主義者がとりあげた問題とも繋がっていくかもしれません。案外昔の問題と現在は身近な関係かもしれませんね。
【ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』】
ゾンバルトは前回並べてみましたので、今回は私が読んだこの本だけにしておきます。ウェーバーと比べて読むのが面白くていいと思うので、今回書いたような内容になってしまいました。
【テュルゴー『富に関する省察』】
農業こそ富の源泉である、というようなことはこの本に書いてあったかと思います。
テュルゴーは重農主義という経済学の範囲に入る人らしく、なんでもアダム・スミス以前には経済は農業を中心に回っていると考える重農主義と、商売を中心に回っていると考える重商主義とに分かれていたそうです。アダム・スミスはそれを統合して初めての体系的経済学を築いたのたそうです。いやぁ、何事も歴史がありますね。知らないからアダム・スミスからスタートすると思ってましたもん。
テュルゴーは以前リスト作ったので載せておきますね。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/06/170039
次の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/02/193037
前の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/30/193043
お話その109(No.0109)