動機の宗教性 〜ウェーバーの宗教社会学のはじまり
宗教と科学
ニュートンが科学を生んだ動機は宗教的なものでした。一見して水と油のこの関係。よく考えなくても不思議な気がしますね。なんで合理的なものの塊のような科学が宗教から生まれたのでしょう。
そりゃ宗教といっても宗教そのものから科学が生まれたわけではありません。神学から延長すれば科学が出てくるというわけでもないですからね。だからこそ中世的神学を切り離す者としてデカルトが必要であり重要なのでした。
しかし、それなのに科学の誕生には宗教的な動機が存在したのです。
ウェーバーの宗教社会学
これと似たような問題を考えた人がいました。それがウェーバーという人です。覚えていてくださっている人がどれくらいいるかわかりませんが、宗教を社会学した人としてデュルケームと共に私があげていた人です。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/30/193002
デュルケームの考え方は宗教を通して人間の認識の根源となるものとして集合表象という概念を抽出したものでした。宗教は不合理であるがそれは社会的事実としては自明であり、その内部にいる者にとっては正統性ある認識なのだ、とでも言えるでしょうか。デカルトはこの認識の前提を疑い自我という概念を掴んでいったのでしたね。
宗教的な動機と資本主義
それに対してウェーバーはニュートンが持ったような宗教的な動機に注目した、といえるかもしれません。デュルケームが宗教を現象として分析したのに対しウェーバーは個人の中に形成された宗教性を分析したといえるでしょうか。とりあえず全然違うアプローチの仕方だと思います。
さて、ではウェーバーはどのような問題において宗教的な動機を扱ったのでしょうか。それは資本主義です。それもウェーバーの言い方でいえば、近代資本主義です。これはどう違うのでしょうか。
ウェーバーが言いますには資本主義というものはなにも現代に特有のものではないそうです。お金を儲けることを第一に考える社会はどの時代どの地域にもあった。ただそれらはお金を儲けること自体が目的なのではなく、お金を儲けて栄耀栄華な生活をすることにある、と言います。つまり金持ちになって遊んで一生暮らしたい、というわけですね。
なんと怠惰で自堕落な目標でしょうか。ちっとも宗教的ではありません。しかしその方が普通なのだそうです。今だってありますね。ただ違うとすれば最近は楽して稼ぎたい、って考えに変わっていることでしょうか。余談ですが元プロ野球選手の金村義明は、新地(大阪屈指の高級歓楽街北新地のこと。銀座の大阪版)で20代くらいの若い奴がようけぇ飲んで騒いでるけど、あれ、絶対オレオレ詐欺の奴らやで、あんな年で新地なんかで飲めるわけないもん、とラジオで言っていたことがあります(しかし金村さんの野球漫談は面白いですね)。ウェーバーが規定する資本主義というのはいわばこんな感じで、豪遊するためにお金を手に入れるのですね。そしてその手段は問わないわけです。だから法律で縛る必要があるのかもしれません。逆に言えばそうした規制を緩和すれば経済活動が活発化するというわけです。オレオレ詐欺は明確に犯罪ですが、犯罪未満の範囲は広がりますものね(って、ちょっとイジワルにすぎるでしょうか)。
こうしたお金儲けこそ資本主義だとすれは、ウェーバーが違うと考えた近代資本主義は何が違うのでしょうか。
気になったら読んで欲しい本
【ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』】
【デュルケーム『宗教生活の原初形態』】
で、デュルケームの本。ウェーバーと比べて宗教の扱い方の違いを見てみるのも面白いかもしれませんね。説明は前回までに私なりにしているのでそちらをご覧くだされば幸いです。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/02/193043
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/03/193022
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/04/193029
次の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/20/193050
前の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/18/193053
お話その101(No.0101)