日本語もまた外国語のように鍛える
しゃべれるだけの馬鹿は困る?
渡部昇一が述べていることは、極端にすれば喋れるだけの馬鹿では困る、といえないこともありません。これは英語を代表とする外国語だと喋れるだけで理知的に見えてしまうのですが、母国語である日本語に当てはめて考えてみればごくごく普通の主張であるかと思います。しかし当たり前に喋れる日本語ではそのようなことを意識せず、わざわざ学ばなければならない英語であれば喋れるだけで評価してしまう錯覚を生んでしまうことにもなります。
母国語の水準
私たちは誰しも母国語を自然に操りますが、その母国語の水準についてはあまり考えません。また母国語に対する理解も日常的に理解するものと、英語のように学んで理解しなければならないことも失念してしまいます。
日常会話と話芸の違い 〜同じ日本語でもレベルが違う
たとえば日本語で日常会話をすることは日本人であればまず誰でもできるでしょう。しかし日本語が喋れるからといって漫才を披露することが出来るようになるわけでもなく、人前で満足にトークが出来るとも限りません。それはTVや舞台を通して専門化された日本語の使い手となった漫才師やタレントによってようやく可能となるのであって、ましてや大勢の人から笑いをとったり一級品の腕前になることは、ただ日本語を使えるというだけでは不可能と考えるべきだと思います。日常的に理解できているはずの日本語会話においても、理解するべき水準というものはありそうです。
日本語としての現代語や古典語
また日本語といっても現代語だけが日本語というわけでもありません。源氏物語は千年も前の作品ですが、やっぱり日本語で書かれています。しかしそれをここで私が書いている文章を読むようにしてはきっと読めないでしょう。また常に生じてくる若者言葉や新語というものもあります。これも日本語であることには違いなく、正しい日本語ではないからと排除するわけにはいきません。何故なら日本文学の世界的古典である源氏物語と比べて我々の日本語の使い方はほとんど一致しないくらいに変わってしまっているからです。なら古典時代に比べて我々の日本語は歪んでいることになりますが、そんなこと誰も意識しません。日常的に使っているから誰にでも通用するため、正しい日本語であることを疑うことなどしません。
鍛えられるべき母国語
しかしこうしたある意味では死んだ日本語から現代の日本語を捉え直すことも出来ます。そうすることによって日常的に使っている日本語を鍛えることも可能です。それはなにも源氏物語のような古い日本語からだけでなく、若者言葉のような新しい言葉からでも出来るでしょう。そしてそのような日常的なだけの日本語を鍛えていくことによって、日常的な日本語の使い手は漫才を披露出来たり小説を書いたりすることが出来るようになっていくのだと思います。
母国語と思索と社会
そしてまた、そうした母国語を用いて人は物事を考えることができ、思索の精華が大きく社会を変えていくことになるのです。それは近代においてはヨーロッパであり、ヨーロッパで生じた科学を代表とする文化です。しかしその文化は彼ら自身に理解できるように考えられ、書かれ、発展してきました。それを我が物とするためにはなによりも彼の国のことを満足に学ばなければならなかったわけです。それが渡部昇一には文法の水準で外国語を理解することであると捉えられ、まさにそれこそが日本の強みだと思われたのでした。
【渡部昇一『渡部昇一小論集成』】
次の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/17/213030
前の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/15/213049
お話その54(No.0054)