話せること以上の、読む(理解)ことの重要性
『大漢和辞典』のお話をしましたが、昔の日本人は偉かった、なんて言うと、ちょっと昨今の様子では肩身が狭いかもしれません。その前日にも加藤周一の『日本文学史序説』のお話を少ししましたが、左翼の超大物である加藤周一だけでは偏っていると思われてもよくないので、保守の大物である渡部昇一からも昔の日本人は偉かった、といったお話を紹介してみたいと思います。
渡部昇一ってどんな人?
渡部昇一をご存知の方がどれくらいいらっしゃるのかはわかりませんが、本業は上智大学の英語学者です。それだけでなく相当に古くから保守論客として活躍されていたと思いますが(あまり詳しくないので、具体的には説明できません)、2017年に亡くなりました。もう令和になってしまいましたから覚えていらっしゃる方もどれくらいいるかわかりませんが、前天皇の生前退位が議論された時、有識者会議にも呼ばれていました。TVのニュースで渡部昇一が映っていたのを見た時は少し不思議な感じがしました。知識人ってTV出ませんからね。
渡部昇一の英語観
その渡部昇一に単行本未収録の文章を集めたものがありました。相当に分厚く箱に入った2分冊です。この中で日本の英語学習について書いている文章がありました。
語学(外国語)の解剖的理解としての漢文法
ある韓国の文人が書いているのだが、日本人の文法理解とは壮観であるらしい。まるで外国語を母国語のように読めるように工夫する。その人が以前漢文の本を購入したそうだが、中国で出版されたものだと思っていたら江戸時代に日本で出版されたものの写真版だったらしい。普通の漢文に返り点や送り仮名が付してあり、まるで中国語をばらばらに解剖しているようだ。あたかもカエルの解剖のように外国語を解剖し、自分たちで理解できるようにしてしまう。しかしこの態度こそが外国語だけでなく、そこに書かれた外国文化をも理解することが出来る原動力ではないのであろうか。
欧語へと応用した、漢文法的解剖理解の手法
それを近代に入って日本人は欧語に応用した。つまり漢文を読むようにオランダ語や英語を読んだのだ。それはたしかに非効率なやり方かもしれない。しかし当時も英語を喋る国は植民地としていくらでもあった。けれども彼の国の人々が自力で近代化を成し遂げることは叶わなかった。非ヨーロッパ圏でそれを可能としたのはただ一国、日本だけである。それは外国の進んだ文化を取り入れるため、漢文を読む時代から徹底的に文法から学んで理解する能力を養ってきたからである。英語を喋りイギリス人とも日常会話をしてきたであろう被植民地国は、英会話としては当時の日本など比べ物にならないほど進んでいただろう。しかし国を支えたのは英語を喋る能力ではなく、英語を理解する能力であった。
文法的理解としゃべれること 〜原理原則からの理解の優位点
そして一旦外国語を文法の水準で理解できたならば、別の外国語を理解することも可能となってくる。何故ならば自分たちと違う文化圏の言語を原理原則にまで至って
理解するから、同じ文化圏の違う言語も見当がつくようになるからである。しかし、ある外国語を喋れたからといってそのまま他の外国語を喋れるようにはならない。それは理解する水準が違うのである。たとえば自分が学んだ先生に、イギリスに留学し英国英語を完璧に喋れる先生がいたが、文法の理解はそれほどでもなかった。すると生徒たちの突っ込んだ質問には満足に答えることができない。またアメリカの高校を卒業した日本人学生が日本の大学に入って授業を受けだすと、クラスで使っているテキストが読めない。基本的な文法も理解しない。喋れて理解しているのに、正確に読むということが出来ないのだ。
日本語を学ばせることを忘れる日本人
他にも戦後の時代にアメリカで成功した日本人がいた。自分が英語で苦労したので子供たちに徹底して英語を教えた。しかし日本経済が世界水準に達し、日本で働く方が収入がよくなった。そのため日本に帰ってきたが、困ったことに子供たちは日本語が出来なくなっていた。自分たちは日本人のため日本語を学ぶなどという観点は失念しており、日本語を一から理解するということがどれだけ苦労することなのかということを理解していなかったのだ。
無口な(つまりしゃべらない)日本人留学生の研究と、国内研究水準への貢献
また自分がドイツへ留学した時、ある心理学の大家のもとに学びにきた日本人がいた。英語に続いてドイツ語も学んでいたため通訳を頼まれついていった。そこで日本人が大家の先生に、戦前にも多くの日本人研究者が先生のもとに学びに来ましたが、どのような印象でしたか、と尋ねた。しかし大家の先生は、彼らは私の研究室で一言も話しませんでした。ですからわかりません、と答えた。しかしその一言も話さなかった日本人研究者たちがしかるべき参考文献を確実に読み、正確に理解して帰国し、日本の心理学の水準を欧米並みにすることに貢献したのである。
外国語の使用と理解の違い
英語、外国語を文法から学ぶのは、ただその国の言葉を使えるようになるためだけではない。そこに書かれているものを徹底的に理解し、自らとするためにある。そしてそれは日本の特長であり、独特の文化でもある。これを放棄してはならない。
とまぁ、こんな感じの内容です。私が勝手に要約したので本文通りの引用ではないことを断っておきますね。興味のある方は渡部昇一の本を手にとってみてください。
ちょっと長くなってしまいましたので、私自身の感想や意見は明日に回したいと思います。
ちなみに、こうした日本人の外国語習得の様子がどのようなものであったかは福沢諭吉の自伝を読むとよくわかります。簡単に説明したものを書いてみましたので、そちらもご覧になっていただけると嬉しいです。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/17/213030
参考となる本
【渡部昇一小論集成】
この本に今述べたことがばらばらに書いてあります。なにせ大きな本ですからね。いろんなところに散らばっています。いくつものカテゴリーにわけられていますが、主に英語学習や文化に関するところに載っています。私はぺらぺらとめくって面白いところを読んだだけで通読はしていません。
ちなみに昔渡部昇一は政治家と英語学習について論争をしたことがあります。その経過から特別に項目がたてられていますし、著者自身も強い関心があるのですね。
あ、よく見たらこの論集、大修館から出てますね。なんだか続きものみたいになりました。
【平泉渉,渡部昇一『英語教育大論争』】
で、その論争をまとめた本。私は読んでいません。でも文庫だから簡単に読めそうですね。
次の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/16/213006
前の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/13/193020
お話その53(No.0053)