日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

M-1グランプリ2020年マヂカルラブリー決勝のネタは〝面白くない〟で漫才じゃないのか論争問題 〜M-1:2020とコロナとしゃべくり漫才

スポンサーリンク

スポンサーリンク

 

M-1グランプリ2020におけるしゃべくり漫才とコロナ禍

前置き

今回のものはかなり長い文章です。ちょっと時間のある時にでもちょぼちょぼと読んでいただければ幸いです(ちなみに再投稿です。時期ヘンですがゆるしてね)。

 

M-1グランプリ2019~史上最高681点の衝撃~ [DVD]

M-1グランプリ2019~史上最高681点の衝撃~ [DVD]

  • 発売日: 2020/06/03
  • メディア: DVD
 
紳竜の研究 [DVD]

紳竜の研究 [DVD]

  • 発売日: 2007/05/30
  • メディア: DVD
 

 

今年のM–1は終わった後にちょっと色々言われています。いえ、もしかしたら毎年言われているのかもしれませんが、私には特別そう見えてしまいました。

 

理由はチャンピオンであるマヂカルラブリーのネタが漫才か否か、とか、面白くないぞ、とかそういうもののようです。そうした点について不満を持つ人たちが文句を言い、文句を言った人に不満を持つ人たちが擁護しているようにも見えます。

 

f:id:waka-rukana:20201225183518j:image

 

そうした状況の中で私も自分なりに整理して書いてみたいな、と思って筆を取りたくスマホをいじっているわけですが、一応自分なりの立場から整理してみましょう。

 

今年のM–1のネタは面白かったかつまらなかったか、といえば、結構面白かった(けどやっぱり去年がよかったし、一昨年までの方が今年より面白かった、と感じた)。

最終決勝にまで行ったマヂカルラブリーやおいでやすこがのネタは漫才か否か、といえば、漫才でいいと思う。

じゃあ今年のM–1が満足か不満か、といえば、不満。

 

こんな感じでしょうか。あまり顰蹙を買わないように気をつけながら書いてみましょう(満足の人もいるしね)。

 

マヂカルラブリーは漫才か問題

とりあえず今年のM–1でよく言われていることは、見取り図以外は漫才なのかどうなのか、ということのようです。そう言いたくなる気持ちはよくわかります。優勝者が決まった時に審査員であるサンドウィッチマン富澤の言った、転がってるだけでM–1優勝出来るんだ、にそれはよく現れているかと思います。多分この意見と同じ思いをした人が結構いたので大きな話題になったのでしょう。

 

これに対してマヂカルラブリーは面白かったし、ピンマイクの前でかけあいの中やったから漫才であって、同じネタをコントでやったからって面白くなるかはわからない、つまりマヂカルラブリーのネタは漫才として作られたネタであって、それを漫才王者を賭けて争われたM–1で優勝したのだからあれは漫才以外の何物でもない、というような意見も目にしました。

 

f:id:waka-rukana:20201225183551j:image

 

なんとなくこれはどちらもうなずいてしまいそうな意見ですよね。確かにマヂカルラブリー、おいでやすこが、見取り図、と並んだ時、見取り図だけが漫才らしい漫才に見えますし、またマヂカルラブリーやおいでやすこがが漫才であるかはどうかとしても面白かったことも否定する必要もないと思います(面白くなかった人もいるだろうけど)。

 

ただ面白さのタイプが違うんじゃないか、M–1は正統派のしゃべくり漫才の頂点を決める大会であって、面白けりゃそれでいいのか、という異議申し立てが視聴者やお笑いファンから漏れてしまった、ということかもしれません。

 

これをどうやって考えていきましょうか。

 

漫才の自由と型

まず漫才に特定の型を求めるな、もしくは勝手に漫才はこういうものだと決めつけるな、という意見について考えてみましょう。

 

これは納得のいく意見ですね。漫才っていうのが一つの型でしかないとしたらとても窮屈なものになってしまうかもしれません。それは落語のように古典を定めてそれを継承していくような演芸となれば別にかまわないかもしれませんが、漫才はまだそうした演芸ではありません。

 

音楽や落語による型

たとえば音楽でも似たようなものらしく、たしか吉田秀和は、クラシックというのは変なジャンルだ、普通いい曲をつくった人が偉いのにクラシックは既にある曲をよく弾く演奏者が偉い、新しくいい曲を作るということがない、といったようなことを述べたそうです(誰かが引用したのを目にした覚えがある)。

 

吉田秀和『私の好きな曲』】
私の好きな曲―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)
 

(どこに書いてあるのかわからないので、とりあえず手に入りやすそうなものを載せてみました)

 

これは文化としてピークを過ぎて保存される対象になってしまったから起こることかもしれませんが、まだ漫才はそんな年齢ではないでしょう(ちなみに談志は若い頃落語がこうした対象になってしまうことに強く反発し抗おうとしたそうです)。そのため型はどうでもいいということは一定の理解を持つことが出来ます。新しいネタを作ることが新しい型を作っていくことになることはおかしなことではないと思います。

 

立川談志『現代落語論』】
現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)

  • 作者:立川 談志
  • 発売日: 1965/12/10
  • メディア: 新書
 

(談志がどこで落語についてそんなことを書いていたのか知らないのですが、最初の著書をとりあえず載せておくことにします)

 

小説や絵画における自由

しかしこれも行きすぎるとよくわからないものになってしまう可能性もあります。たとえば文学であればジェイムズ・ジョイスベケットの作品のいくつかは普通に読んでわかるようなものではないかと思います(読めるものもある)。また絵画でも抽象画なんてなんの意味があるのか一見しただけではわかりません。

 

f:id:waka-rukana:20201226011727j:image

 

たとえばジョイスの『ユリシーズ』には最後の方に一行も改行のないひらがなだらけ(訳文)の文章が丸々1章分あったかと思いますが、なぜこんな形になっているかといえば、人間の内面的に浮かんでくるものをそのまま表現しようとしたからです(意識の流れって言います)。ベケットは『ゴドーを待ちながら』でただただ意味もなく待っている2人組を描きましたが、これは明確な価値観を失った現代人のメタファーでもあります。カンディンスキーは抽象画でなにを描こうとしたのかといえば、人間の精神だったそうです。

 

ジョイスユリシーズ』,ベケットゴドーを待ちながら』,カンディンスキー抽象絵画論』】
ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 

(それぞれ現代芸術の代表的な人たちですね。カンディンスキーは抽象画を何故描くにいたったかについてこの本の中で書いていたかと思います。まず印象派の中に写実とは異なる表現を認め、そこから物ではない人間の精神を描こうとして物象を解体していって抽象画へと到達した、というようなことだったかと思います)

 

つまり文学や絵画がここで求めようとしたことは、各々の分野では本来的に描けないようなものすら描こうとした前衛的態度だ、ということも出来るかと思います(『ゴドーを待ちながら』は違うか)。映画/文芸批評家の蓮實重彦は、小説とはなにものでもないということが小説というものの唯一の定義だ、と述べていたかと思いますが、それは小説が徹底して自由でいいということです。それと同じように漫才も自由でいいのですが、それを突き進みまくると一見しただけではよくわからないものになってしまうかもしれません。夏目漱石谷崎潤一郎の作品は多分誰が読んでもわかるし面白いかと思いますが、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は誰が読んでもまずわからない気がします(興味あったら本屋さんか図書館でページめくってみてね)。

 

蓮實重彦『小説から遠く離れて』,ジョイスフィネガンズ・ウェイク』】
フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫)
 

(蓮實重彦はどこでいってたのか忘れたのでとりあえず一冊載せておきました。ジョイスのこの作品は試しに数ページめくってみただけでもわけがわからないのがよくわかると思います。一見しただけでわかった人がいたらすごいと思います)

 

となると漫才もあまりなんでもありということになると、勉強家の漫才通にしかわからないようなネタが偉いとなってしまう危険性もないわけではありません。それは漫才の高級文化化になってしまいますので、やはりやめて欲しいとは思います。

 

自分の道としての新しい芸

かといって必ずしも漫才になにがしかの型がなければならないのか、というと、別にそんなことはないかと思います。ただ文学や絵画がそうであるように、ついていける人が少なくなってしまうだけです。タイプは違いますが、今現在のウーマンラッシュアワーの漫才は右寄りの人は絶対受けつけないでしょう。しかしウーマン村本は臆することなくその道を突き進んでいます。それが漫才として絶対的に間違っているというわけではなく、同じように違うタイプで自分の道を進むことは間違っているわけでもありません。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/summary/045

(以前関係しそうなことを何回か書きました)

 

たとえば現在のお笑いバラエティは長いことフリートーク中心のものになっています。しかしこれは明石家さんまがフリートーク主体のバラエティ芸を極めきって、後続する若手も同じ道を歩ませるような型を作ったからそうなったわけです(他にもバブルがはじけてTV局の制作費がなくなり、かつてのような大規模な番組作りが出来なくなったという理由もあるでしょうけど)。さんまは若い頃師匠の、雑談でお客さんを笑わせられたら最高やな、といった言葉をずっと胸に秘めていて、それを実現させて現在の型を作ったことになるのですが、当初TV局はさんまの意見を、雑談だけで番組作るのは無理だよさんまちゃん、と言われて大きな壁があったことも話されていました。それをさんまは乗り越えて、現在のお笑い芸人はTVに出る以上フリートークが満足にできなければいけないくらいにしてしまいました。

 

これと同じように漫才も新しい道を作ることは別におかしくありません。ただそれが新しい型になるくらいに優れたものになっているかどうかは大きな問題になるでしょう。マヂカルラブリーの漫才がそこまでのものであるかは、また別に考えられる必要があるかと思います。

 

一応似たような独自の道を進んで高い水準で完成されたように見えるのがジャルジャルじゃないかなぁ、と思ったりもするのですが、なにせ、アル、アル、ゼンチン、ゼンチンで漫才作って面白くしたんですからね。あのネタだって下手にやったら、なにやっとんねん、で終わってしまいます。その点で言えばマヂカルラブリーだって似たようなものかもしれません。

 

ウケればいいことと資本主義の論理

ただもうひとつ自由の問題もあります。漫才というものは大衆演芸であると同時に、主にTVといったマスメディアを通して我々に披露されるものでもあります。それはお客さんの関心を掴まなければならない、ということで、面白くなければ見向きもされないわけです。これはTVだけでなくネットでも劇場でも同じでしょう(だからウーマン村本のネタは特定の政治信条を持つことをしない大多数の日本人である視聴者を相手にするTVからは出番を遠のけられ、気に入った人が身銭を切って芸を観にくる劇場で披露される、と考えられますね)。

 

f:id:waka-rukana:20201225183655j:image

 

となると、なんでもいいからまずはウケなければならないことにもなります。ちょっと見方を変えてみるならば、ネットの中で人を集めるためならばデマだろうがフェイクだろうが垂れ流しにした方が人は寄ってくる、という状況と似たようなものかもしれません。どれだけ内容が良くても、人が来てくれなければどうしようもないのです。

 

どうしてどうしようもないのでしょうか。それはお金にならないからですね。つまりウケるとか面白いということは、意外と資本主義の論理のもとに従わされた形でしか成り立っていないということです。そしてそうなると資本主義の論理に従って、どんな手段でもいいから儲けられるようになるのが正道になります。それをしないと表舞台から退場させられてしまうわけです。しかし一方資本主義の論理を徹すると効率化の問題にもいきつき、結局簡単にウケてお客さんが食いつくものが量産されていくとこになります。それがネット世界ではデマやフェイクになってしまったわけですね。今でも出版の世界では週刊誌や雑誌がそうで、不倫スキャンダルの文春は最早文春砲とひとつの言葉にまでなってしまいました。

 

面白さとウケることと売れること 〜話芸とキャラ

そこでお笑いにおける面白さという難問が出てきます。これはウケればいいのかどうか、ということです。もうちょっと考えてみましょう。

 

今回のM-1が不満に思われたのは、昨年のミルクボーイやかまいたちのような明らかに優れた話芸によって繰り広げられた漫才を面白いとみなすから不満に思われたわけです。しかしそれとは異なる面白さもあります。たとえば毎年年始に行われるおもしろ荘は、ほとんどそんな至芸の話術を持った芸人が選ばれているわけではありません。どちらかといえばキャラ芸人と言えるのではないでしょうか。

 

しかしブルゾンちえみひょっこりはんなどブレイクした人もたくさんいますから、ちゃんと視聴者にはウケたわけです。ですがその芸がミルクボーイやかまいたち、和牛といった話芸の域に達しているかといえば、失礼ながら同じとは言いにくいかと思います(ご本人とファンの人たちごめんなさい)。けれども売れるということだけであれば、キャラ芸人の方が早く売れるのです。それはミルクボーイやかまいたち、和牛といったM-1で目を見張らせた漫才師とブルゾンちえみひょっこりはんの芸歴を比べてみるとわかるかもしれません。ただ、そうした売れ方が残るとは限らないことを視聴者もよく知っているので、世間では一発屋と呼ばれてしまいます。

 

となると世間というものもウケて面白いと思うものにも順列をつけて判断しているようにも思えてきますね。あとは効率化の問題です。

 

至芸の話術と売れるまでの時間と効率化

芸人自身の問題とすれば長く一線級で活躍したいと思うのが普通です。しかし事務所からすれば1人の芸人が20年売れるのも、20人の芸人が20年売れるのもふところに入ってくることに変わりはないかもしれません。そして至芸の話術を身につけた漫才師を育てるのは時間もお金もかかるかもしれないけどキャラ芸人なら量産出来るとなると、資本主義の論理に従えばこちらの方が効率的になるとも言えます。

 

90年代における大阪の笑いの死と起死回生の戦いとしてのM-1

ある意味では吉本はこうした路線をダウンタウン以降にとっていたとも言えます。全国に若手の活躍出来る小劇場を常設し、そこに若い女の子たちをファンとして招き入れることによってお笑いの若者化を成立させました。それまでの吉本はやすきよに代表されるような全世代にウケる漫才をTVに持ち出すことによって市民権を得漫才ブームを築いていました。しかしそれはさんまや紳助の世代まではすべて徒弟制であり、TV出演の許可も師匠にお伺いを立てなければならないようなものだったそうです。それをNSCという学校を作ることによって若手芸人を量産することが出来るようになったわけです。

 

しかしダウンタウンは爆発的に売れましたが、90年代のお笑いというものは大阪の笑いの敗北の時代でもありました。今の20代、いえ30代前半であってももうわからないかもしれませんが、90年代には漫才というものは死にかけていたのです。

 

活躍する東京芸人とコント

TVのバラエティを見ればほとんどすべてといっていいくらいに東京の芸人で占められ、折りよくボキャブラ天国ブームで爆笑問題ネプチューン海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)に代表される芸人が圧倒的人気を誇りました。そして彼らのやるものはほとんどがコントで、爆笑問題が唯一漫才をしていたくらいで他に若手の漫才なんてものはTVに存在していなかったのです。

 

大阪の小劇場における漫才禁止令と中川家

そしてそれは大阪にも大きく影響しています。ダウンタウンを輩出した小劇場で、漫才禁止令が出たのです。今のTVに出たければコントをやるしかない、漫才なんてやっても売れない(ウケない)、だから漫才をやるようなやつは劇場にもいらない。こういう感じだったそうです。

 

そしてこの時劇場から追放されたのは誰あろう、若手時代の中川家でした。言うまでもありませんが、当時から中川家の漫才は完成された素晴らしいものでした。下手をすればただ騒いでいるだけに見えかねないコントよりよほど優れているように見えたのは、カウスボタンや大助花子にこだまひびき、そして阪神巨人といった大ベテランの漫才を日常的に見ている関西の視聴者には確かだったでしょう。しかし世は東京勢に占められ、大阪流の漫才などは歯牙にもかけられない。そのため大阪の漫才や笑いは死滅させられる寸前だったのです。

 

大阪漫才の危機と島田紳助M-1

そしてこの状況に強い危機感と問題意識を持った大物芸人がいました。島田紳助です。紳助は紳助竜介で漫才をしていた漫才師でしたが、早々に自分の漫才の才能に見切りをつけTV司会者の道へと転身していきます。その理由は同期に天才漫才師阪神巨人がいたことと、後輩にダウンタウンが出てきたことと時々漏らされていますが、同時に自分が漫才を去ってしまったことにかなり後ろめたい気持ちを持っていたことも発言されていたかと思います。そしてこの漫才への気持ちと、大阪の笑いの危機的状況を打破するためにM-1を作ったと言います。

 

この辺りのことは以下の文章に私が書く以上に優れたものがありますのでそちらを読んでいただくといいかと思いますが、私の実感としてもこちらで書いてあることは一視聴者として痛いほどわかります。

 

『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか? - toroneiのブログ

 

そしてこちらでも書いてあるのですが、M-1は東京の笑いに占められたTVの世界における漫才の復権を賭けた命がけの戦いだったわけです。それはM-1という大会で1番面白い漫才師を選ぶというだけではありません。TVという世界で多数面白い笑いがある中で、M-1という大会自体が大阪の漫才の笑いこそが面白いのだ、と証明するために存在していたわけです。そしてその期待に応えるように中川家が優勝し、歴代の優勝者がそれまでの笑いの風土を変えるくらいに阪神巨人を範とするような至芸のしゃべくり漫才を披露したわけです。

 

もしM-1がなければ、誇張抜きに、本当に大阪の笑いや漫才はTVでは死んでいたかもしれません。しかしそれは回避され、今ではかつてと逆のようにTVの笑いは大阪、というか、吉本的な漫才の笑いが場を占めるようになってしまいました。

 

東京の笑いと細かすぎて伝わらないモノマネ選手権

おそらく東京の笑いを愛する者にすればこれは気にくわない状況でしょう。その点東京の笑いを救おうとしていたように見えるのがとんねるずなのではないかと思うのですが、今も特番で続いている細かすぎて伝わらないモノマネ選手権で漫才とはまったく異なる、タモリが得意としたような形態模写の現代版のようなネタをする芸人をTVで披露しようとしているような気もします。これは明らかに大阪的な笑いとは異なるでしょう。しかしこれがお笑いのひとつの形であることは間違いありません。そして現在主流ではなくなってしまったそうした芸を表舞台に出そうとしているのは、とても偉いことだと思います。

 

それではM-1細かすぎて伝わらないモノマネ選手権のように東西の笑いが別の場所で披露され芸人を世に輩出されるようになっていればいいかといえば、それでいいような気もするのですが、やはりM-1の影響力は絶大です。そしてM-1に賭けた目的も達成され、創始者である島田紳助も去り、M-1が大会として継続されている以上、その在り方が元のままだとも限りません。大阪的なしゃべくり漫才ではなく、ただ視聴者の喜ぶ面白いものを漫才として見せればいいという考えが現れてきているのかもしれません。

 

今年のM-1しゃべくり漫才M-1の理念 〜面白さに対するイデオロギー対立

今回の大会が昨年までと異質であるように見えるのは、そもそも決勝に進出したコンビ自体に正統派しゃべくり漫才が少なかったことにも理由があるような気もします。これが大会運営者による方針転換なのか、別の理由があるのかはわかりません。

 

そして今回の大会でマヂカルラブリーのネタは漫才なのか、というような声が出てくるということは、漫才とは何か、というよりもM-1が担っていた大阪的しゃべくり漫才をTVの世界で1番であると示すという理念自体が問われていると言えます。いわばマヂカルラブリーのネタは漫才であっても、それはM-1にふさわしいのか、ということですね。そしてそれはM-1が面白い漫才を決める大会なのか、大阪的しゃべくり漫才を示すための大会なのか、ということになるかもしれません。

 

言い方を変えれば、面白ければそれでいい、という価値観と、大阪的しゃべくり漫才こそ面白い、という価値観のイデオロギー対立がここで行われているわけです。しかし上で書いたように、大阪的しゃべくり漫才の笑いというものが常に維持されるということはありません。かつては滅びかけていましたし、今も面白ければそれでいいのであれば、もしかしたら量産されるキャラ芸人に漫才は押し負けるかもしれません。紳助が引退した後の方がキャラ芸人の活躍が増えたような気がするのは、私の気のせいでしょうか(やっぱり気のせいかな)。

 

自分はどの価値観に賭けるか、という問題

そして私自身は阪神巨人の漫才こそが至芸であると考える、大阪的しゃべくり漫才の信奉者です。そのためM-1は紳助が作った時の当初の目的を忘れずに続けられて欲しいと願う人間です。ですがこれは個人的立場でしかなく、普遍的態度にはなりません。それは逆に面白ければそれでいいという考えも個人的立場であり普遍的態度にはなりません。永久にすれ違うだけです。

 

哲学者のカントは人間の理性は経験に根差したことしか明確に知ることは出来ず、それを超えると互いに交差しない立場で神の法廷のもと永遠に争うしかなく、そのどちらかに自分を賭けるだけしかない、と言っていたかと思いますが、神学問題だけでなく芸術問題も経験に根差したものではなく、漫才も芸術の一部である以上、その価値を自分はどこに賭けるか、ということにしかなりません。そして私は大阪的しゃべくり漫才に自分の価値を賭ける人間です。阪神巨人を範とするしゃべくり漫才は死んでもらっては困りますし、表に出てくれていないと困ります。

 

【カント『純粋理性批判』,ヘーゲル『歴史哲学講義』】
純粋理性批判

純粋理性批判

 

(カントの哲学はこちら。とても難しいですが、間違いなく重要なことが書かれています。

ちなみにカントによれば経験に根差した理性の利用とは科学だけです。そしてマヂカルラブリーとおいでやすこがと見取り図のどれが面白かったかなんて科学的に判断してもわかりません。投票も組織票が入れば民意が歪みますし、政治が民主主義であってもこうした組織票=支持団体をいかに確保するかで決まってしまうことと同じです。政治が科学でないのと同じように、芸術の判断も科学ではないのです)

歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)

歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)

  • 作者:ヘーゲル
  • 発売日: 1994/06/16
  • メディア: 文庫
 
歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)

歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)

 

(そしてどちらが正しいかわからない問題の場合、自分の正しいと思った価値観をめぐる戦いになっていきます。まず自分の賭けた方の価値観を明確なものとするべく理念として磨かれていきます。今回の場合M-1はなんのための大会か、ということですね。それが面白ければいい漫才なのか、正統派しゃべくり漫才とみなされるものなのか。それを色々言うことは理念を磨くためにはいいことかと思います。ただこうした理念はどちらが正しいとは言えないので、結果的に理念同士の戦いとなります。ヘーゲルは人類の歴史自体がこうした理念の戦いであり、現在ヨーロッパ哲学が頂点として現れたと考えました。これと同じようなものでM-1や漫才の理念も、何が正しいか、もしくは正しいものとみなされるべきか、という理念をめぐって争っている最中なのかもしれませんね。そして島田紳助と吉本とM-1は、かつてボキャ天により東京勢に占められた笑いを、自分たちで大会を作ることによって自分たちの理念を示し人々に認めさせたのでしょう。それが認められて当たり前になるとまた揺り戻しが起こってるのかもしれません)

 

マヂカルラブリーは面白いのか

さて、それでは次にマヂカルラブリーのネタについて少し考えてみたいと思います。大阪的しゃべくり漫才が1番と考える私ですが、マヂカルラブリーのネタも面白いと思えるくらいには他のものも好きなのです。

 

マヂカルラブリーのネタで問題視されるのは、最終決戦で行われたものの方が顕著でしょう。つまりサンドウィッチマン富澤の言うように、転がってるだけという、ある意味ヘンな漫才でした。しかしヘンな漫才ならジャルジャルだって相当ヘンだし、そんな変わらないような気もします。

 

しかしジャルジャルはしゃべってるけど、マヂカルラブリーはしゃべってすらない、と言えるかもしれません。しかし大阪的しゃべくり漫才はしゃべらないと不可能ですが、面白いというだけであればしゃべらなくても動きだけでも悪いということにはならないかと思います。

 

志村けんと動きの面白さ

というのも、志村けんは、自分の考えでは、笑いっていうのは言葉3割で動き7割だ、と述べているからです。そして言うまでもなく志村けんのコントは阪神巨人の漫才のように、笑いの水準として至芸の域に達していることはまず異論がないでしょう。というより、関西圏の人間以外からすれば志村けんの方が阪神巨人より偉いはずです。

 

週刊現代別冊 志村けんさんが教えてくれたこと】

(志村けんがそうしたことを言っていたのは番組の他に雑誌のインタビューでも読んだことがあるのですが、どこに書いてあるのかは立ち読みのためわからないので、最近出た追悼の特集号を載せておくことにします。今でも亡くなって悲しいです)

 

高木ブー志村けんが亡くなった後のネットのインタビューで、今の若手はしゃべるのは上手いけど動きはできないからね、志村や加藤の動きは大したもんですよ、と話されていました(どこでか探したけどわからなかった)。これは阪神巨人やさんま、紳助の話芸は漫才やフリートークとして継承されることに成功したけど、志村けん加藤茶の動きは継承されることに失敗したとも言えます。

 

動きの漫才の可能性

そしてもしこうした動きがコントであれ漫才であれ組み込まれて継承しようという試みがあれば、大阪的しゃべくり漫才原理主義者(?)の私も賛成です。そしてもしマヂカルラブリーの最終決勝で野田クリスタルがやった動きも、もしもし磨かれていってこれから志村けんのようなものになっていくのだとすれば、それは新しい漫才としてきっとひとつの型として完成されていくでしょう。たださすがにまだそこまでじゃない気がしてしまいます(ごめんね野田クリスタル)。

 

しかしあのつり革に捕まるのが嫌だ、という、ただふらふらした動きというのは、ちょっとだけ志村けんの酔っ払いを彷彿としてしまいました。野田クリスタルがどういう考えであのネタと動きを取り入れたのかはわかりませんが、もし完成されたら面白いのではないかと思います。

 

おいでやすこがとピンネタとコンビ漫才

またおいでやすこがについては、まったく別の点で面白かったのですが、それは2人ともピンネタをそのままつなげて漫才にしてしまったことです。おいでやすは関西で東野が司会をしてる番組で、R-1出場の際、どうせ今年も叫ぶんでしょ、といじられていましたが、今年のネタはら行を巻き舌でしゃべるというもので、昨年はヒルズ族になったが貧乏性が抜けずつきあいが合わないということを叫ぶものでした。一方こがけんは確か昨年のR-1で歌がずれていって別の歌になってる、というネタをされていたかと思います。そう、今年のM-1を見た人ならすぐわかりますね。今年のM-1のネタはそれを組み合わせたものだったわけです。

 

しかしピンネタを2人で合わせて漫才にして、なんならピンでやってる時よりも生き生きとして見えたのは驚きました。やっぱり合いの手って大事なんだなぁ、と勉強させられたのです。でもこれってネタとして面白かったのかはちょっと自信がありません。巨人師匠もオズワルドの選評の際アドバイスとして、おいでやすもおもろいこと言うてないけど、大声出してたらおもろ聞こえてくるやん、なんてミもフタもないことをおっしゃられていましたが、そっちの方が正しいかもしれませんし…私にはついR-1に出ていた2人の姿を重ねて今年の漫才を見てしまったので、そんなこと関係ない人にはあまり面白くないのかもしれません。またそんなこと関係なく面白いかもしれません。

 

しゃべくり漫才と劇場とコロナ禍とM-1

しかしなぜ今年のM-1は決勝の舞台にしゃべくり漫才が少なかったのでしょうか。上に述べたようにM-1の運営が宗旨替えして、しゃべくり漫才より面白ければいいものへと評価軸を変えたのでしょうか。

 

もしかしたらもうひとつ別の理由があるのではないか、と思うので、最後にそのことについて書いてみたいと思います。

 

コロナ禍による劇場の自粛

今年がコロナ禍の年であったことは今更言うまでもないかと思います。社会全体で自粛を求められ、実際に行われてきました。飲食店や旅行社、そして最初の頃にクラスターも発生したライブハウスや演芸場なども同じように自粛していました。

 

そして漫才においても披露する場である劇場が閉められていたことは方々で自粛期間中の芸人のトークによって知ることも出来ます。

 

少し前に騏驎の川島は最近思いっきり笑った芸人のネタでもう中学生をあげていましたが、それは劇場でお客さんを巻き込んだコール&レスポンスを客席0の状態でリモートでやっている時のもう中学生の表情が信じられないくらい追い詰められてて、お客さんがいないのに何故ネタを変えない、なんて言っていて、吉本の劇場でも誰もいなかった状態が長く続いていたことがわかります。

 

自粛や謹慎と芸の停滞

そして長いことネタをやっていなかったことが、かなり漫才や話芸としての表現力に関わってくることも、同じように芸人の発言によって知ることが出来ます。

 

たとえば昨年の吉本騒動の時、劇場入りを狙われてインタビューを受けていたトータルテンボス藤田は、自分たちは舞台芸人だと前置きをした後、活動自粛をさせられている芸人たちが心配、自分たちも1週間ネタをやってないと合わなくなる、それを半年も休んでいたらどうなるかわからない、TVは無理でも舞台復帰は1日でも早くしてあげて欲しい、と述べていました。

 

また今年のコロナ禍の中、芸能界も自粛していたため過去の放送の再編集やリモート中継が増えていましたが、その中でリモートで漫才を披露するというものもありました。そしてその時、中々みんなネタが合わなかったのを覚えています。

 

もちろんリモートで漫才をするのですから同じように合わなくてもおかしくないのですが、昨年のM-1チャンピオンであったミルクボーイはほとんどズレたようには見えなかったのですが、トータルテンボスはかなりズレていました。というのもトータルテンボスは珍しく今年お正月休みをとり1ヶ月ほど休んでいたので、そのままコロナ禍になってしまい半年ほど舞台で漫才をすることはおろか、コンビで会うことすらなかったといいます。トータルテンボスサンドウィッチマンの登場でM-1チャンピオンにこそなれませんでしたが、とても立派な面白い漫才をすることには間違いありません。そのトータルテンボスでも長いことネタをしていないと漫才が合わなくなるということに驚きもします(リモートでしたから、確実にそうとも言えませんが)。

 

また同じように過去の漫才を自選で放送する番組でNONSTYLEが10年前の漫才の映像を見せてくれていましたが、ネタ自体は今と同じなのですが、やはり今の方が面白いように見えたこともありました。それは今の方がスピードが速く、息継ぐ暇もないくらいに見ているこちらを畳み掛けてくるからのようにも感じます。10年前はそのスピードが緩く、今のNONSTYLEに慣れてしまった目では物足りなく思えてしまいます。これはNONSTYLEほどの漫才師でも昔と比べてより面白くなっているということですが、同時にいかに間を開けずにお互いが噛み合いながら漫才をすることが面白さにつながるかということのようにも思えました。

 

奪われた稽古と舞台の時間

つまり今年は漫才師にとって漫才を稽古する時間も披露する機会も奪われた年だった、ということです。正統派とみなされるしゃべくり漫才はほんの少しの間の空き具合で面白さが台無しになってしまう危険性のある非常に繊細な演芸だ、ということが仄見えてくるのです。

 

たとえばさんまもしょっちゅうトークはテンポや、と言っていますし、昨年の岡本社長のグダグダ会見にも、アカンアカン、話に中身がなければテンポやいつも言うとるやろ、とも言っていました。またホンマでっかでいつだったか、中身のないもんでも笑わせんのが本物や、みたいなことを言っていたような覚えがあります(ちょっと違ったかな…)。

 

噛み合わされた間やテンポと正統派しゃべくり漫才

こうなると正統派とみなされるしゃべくり漫才は、実は漫才の中身云々より間やテンポの噛み合いこそが重要なのではないかと想像してみたくもなりますが、さんまも笑いはつきつめると緊張と緩和や、と述べています。つまりネタの中で緊張を与えた後にいいタイミングで緩和となるようなものをお客さんに与えればいいということになりますが、このタイミングは理屈で学ぶものではなく呼吸で合わせるものでしょう。つまり職人芸なのだと思います。

 

そういえばサブロー・シローのサブロー師匠はやすきよのやすし師匠から受けたアドバイスとして、漫才の時に相手に言葉を渡すタイミングは焼き芋を手で持って、もう熱くて持てん、という時に渡すようなもんや、と言われたそうです。なんとなく言いたいことはわかる面白いアドバイスですが、それがどれくらいのタイミングか、ということは計算してすまされることではないでしょう。コンビの中でウケる最適な時間を肌で探っていくしかないのだと思います。

 

稽古と舞台と肌感覚と至芸

そしてこれはコンビ間で何度も稽古し、舞台でネタを披露することによって完成されていくのだと思います。きよし師匠は若手に、もっと漫才上手くなるコツ教えたろか、あと50回多く練習せい、と言っていたのをTVで見たことがありますし、松本人志ダウンタウンなうの中で、今自分たちが漫才しようとしたら劇場で無数の駄作を作ってからしか出来ん、と言っていましたし、紳助はひょうきん族のメンバーが集まった時みんな漫才を披露していたが紳竜はやらなかった、それを誰かが、紳竜もやれや、と言ったのを、島田洋七が、アホ、こいつらみたいな細かい漫才一年は稽古せんと出来んわ、と言ってくれて、あぁ、やはりこの人は自分たちの漫才のことをよくわかってくれている、と述べてもいました。

 

島田紳助『自己プロデュース力』】
自己プロデュース力 (ヨシモトブックス)

自己プロデュース力 (ヨシモトブックス)

  • 作者:島田 紳助
  • 発売日: 2009/09/01
  • メディア: 単行本
 

(紳助の話はここに書いたあったかと思います。これはNSCで行われた紳助の授業をDVD化した後、活字にしたものです。紳助の考え方を教えてもらえるのでとても面白い本です)

 

つまりM-1で勝つためのしゃべくり漫才というものは、このようにして非常に洗練させた形でしか生まれないのではないか、ということです。

 

演者と観客と舞台芸術

そういえばブラックマヨネーズチュートリアルは、M-1のネタは一年かけて作った、と言っていたような覚えもあるのですが、それは単にコンビで稽古してネタ作りしたわけではないでしょう。お客さんの反応を見て微調整を繰り返していたのだと思います。

 

そしてこの点が舞台芸術のややこしいところかもしれませんが、演者同士で上手くやってもそれだけでは表現は完成されていないということです。漫才であればコンビの掛け合いだけでなく、お客さんの反応も含めて漫才は完成されるのであって、家で練習しているだけでは多分ダメなのです。劇場で、お客さんを前にして繰り返し微調整を行うことによって至芸の漫才へと完成されていくのだと思います。

 

f:id:waka-rukana:20201225184126j:image

 

そして今年はそれが不可能な年でした。劇場は軒並み自粛で、再開しても観客は減らされたまま。反応を組み込んだ漫才を完成させるには正統派とみなされるしゃべくり漫才の担い手たちには機会が奪われていたと考えることが出来ます。

 

そう考えてみるとコロナ初期の頃、大反発された平田オリザの求めた演劇の保障もなんとなくわかってくるような気もします。舞台芸術は出演者の芸術ではなく、観客の芸術なのです。観客の反応そのものが演者との兼ね合いでひとつの表現となるのであって、それを欠いたら演者だけの表現になって別のものにしかならないのかもしれません。たとえ映像で配信しても、それは映像作品にしかならず舞台芸術ではない、ということでしょうか。ちょっとそんなことも書いてるついでに考えてもみました。

 

コロナ禍と劇場自粛と漫才への打撃

ともかく、今年はコロナによって劇場での漫才の披露ということが出来ない年でした。そしてそれは正統派とみなされるしゃべくり漫才においては決定的に重要な打撃だったのではないでしょうか。そのためコンビ間で隙間のない間で繰り広げられる漫才が完成し得なかった。結果今年のM-1は決勝に正統派とみなされるしゃべくり漫才が残りにくかった。代わりにコンビ間より個人の芸人自体の面白さが勝つような漫才師が揃った。こういう背景があるのでははないか、と推測してみたりするわけです。

 

マヂカルラブリーの最終決勝のネタは、2人の掛け合いというよりも野田クリスタルの動きそのものの面白さでした。おいでやすこがも2人ともピンのネタの組み合わせでした。それは漫才師が劇場でお客さんの反応を見ながら調整するものよりも、芸人自身のパフォーマンスによって完成されるものであったのかもしれません。そしてそんなコンビが残った今年のM-1は、案外コロナ禍のM-1として必然の大会だったのかもしれません。

 

こうして考えてみるとコロナによる自粛というものが思いもよらないところに影響されているのだな、と思ったりもしますが、実は全然関係なくて吉本やM-1運営の宗旨替えかもしれません。ま、こんなことを考えてみるのもたまにはいいかもしませんね。全然違うよ見当違いだよ、と思われる方もいるかもしれませんが、クリスマスですし許してください。

 

あぁ、しかし、10回分くらいのものを書いてしまった。疲れたなぁ。書くのに何日もかかったけど、少しくらいは検索に引っかかってくれないかな。でももうM-1の話題は過ぎてるんだろうか…う〜ん…

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 PVアクセスランキング にほんブログ村