日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

キャラクターの虚構性の意味および価値と人物の自我投影先問題 ~スター/タレントのスキャンダルによるファンへの裏切り=自我投影の拒絶と決して裏切らない具体性がない完全虚構のからっぽの存在=キャラクターの利点

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020_6_3/フィクション%2C読む

 

自我投影先としての人物とキャラクター ~あのキャラは裏切らない

スターと自我投影

フィクションと自我の関係について書こうと思いながら脱線ばかりですが、確か各界のスターは自我投影対象であって、複雑化した現代において作り上げることが困難な自我の代わりとしての社会機能だ、みたいなことを書いたような気がします。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/25/200051

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/06/01/200057

 

【テレビ・タレント人名事典】 

 

具体的人物としてのスターたち

こうしたスターの人たちはスポーツ選手だったり歌手だったり俳優だったりとするわけですが、それぞれ確固たる人物となります。長嶋茂雄だろうが矢沢永吉だろうが高倉健だろうが(やっぱり古い?)、それぞれ実在する人物です。もっとも、だからといって私たちが知ることのできる彼らの姿は皆メディアやステージ(球場、ライブ、銀幕等)の上での話で、隣近所の誰かさんのように知るわけではありません。そのため半分くらいは虚構の存在とも言えるかもしれません。少なくとも知っている情報は具体的に知るものよりも間接的に知るもののほうが圧倒的なはずです(それを具体的なものにしようとするとストーカーとかになっちゃうし、スキャンダリズムによって失墜させようとしてしまう。渥美清のやったように寅さんのイメージが強いと、それ以外の私生活を見せないようにするのが自然なのかもしれない。そしてそれを場に出たままやり通すとさんまや矢沢のように、どこまでが素でどこまでがタレントとしての姿がわからなくなるのかもしれない)。

 

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そしてむしろこうした実像がわからないからこそ、見る者はスターを自分の投影先へと向かわせることが出来るのかもしれませんね。

 

【モラン『スター』】 

(映画スターの分析らしいんですが、私はまだ読んでいません)

 

具体的と自我投影

つまり具体的なものが多すぎると、まさに自分の周りにいる誰かさんと比べてスターを判断してしまうのかもしれません。まぁそれも投影の一種のような気もしますが、自分の理想像よりも鬱憤を投影させてしまうわけで、これじゃスターよりヒール(悪役のこと)になってしまいます。

 

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からっぽさと自我投影

そのため出来る限り自我投影されるべき役割を担うスターは具体的なものの少ない、ある意味からっぽの存在の方が都合がいいわけですね。そのためスターに限らずタレントは自分なりのキャラクターを身につけてそこから逸脱しないように気をつけたり、ちょうどよく自分をよく見せたりするようキャラクターを変更していったり、スキャンダルに気をつけたりするのでしょう。役者であれば事務所総出でスキャンダルから守ろうとするかもしれませんね。そういえば昔のアイドルはトイレも行かなきゃオナラもしない、なんて言われてましたが、これなんて過剰な具体性の抹消の表れかもしれません。

 

人間は具体的を必ず持つ

とはいえこうした人々はやっぱり人間です。アイドルだってトイレ行くし(当たり前だけど)恋人だっているわけです。しかしこうした具体性を伝えられると、ただ楽しく自分を投影させていたものがシャットダウンされたような気になって腹立たしく思われるのかもしれませんね。

 

【サルトル『実存主義とは何か』/100分de名著】 

そういえばとにかく明るい安村が不倫スキャンダルがあった時街の声だかネットの意見だかで、不倫と知った時裸のネタに別の意味を見出して笑えなくなった、なんて秀逸なコメントもありました(でも安村さん盛り返してきたね。頑張って!)。こうした側面を踏まえてロンブー淳はゆるキャラの会社も立ち上げたそうですが、その時に確かゆるキャラはスキャンダルを起こさない、中の人が不倫してもキャラクターには関係ない、なんてもののわかったことを話されていた記憶があります(間違ってたらごめんなさい)。

 

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完全虚構の、具体性を欠いたからっぽの存在=キャラクター

さて、こうした具体性を欠いたキャラクターはなにもゆるキャラだけではありません。もっとわかりやすいところにそんなキャラクターはいますね。そう、アニメや漫画のキャラクターです。そして彼らはゆるキャラと同じくスキャンダルも起こしませんし、自我を投影させる者も裏切ったりしません。具体的な人物=人間とは異なり最初っから最後まで虚構の存在です。そしてそうしたキャラクターこそ自我投影させてしまえば、いくらでも具体性を見せることなく安心して自我を預けてしまえることになるのかもしれません。

 

【東浩紀『動物化するポストモダン』】 

(思想家東浩紀の出世作。データベース消費によってどのようにキャラクターが構築され消費されていくかが書かれてる)

 

これが案外今の世の中のあり方なのかもしれませんね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.10

 

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お話その205(No.0205)

古典となる本を読むことにより新しい価値を生み出す書物と批評による人類の思想的営為 〜世界の現状維持は衰退を意味し、書物と批評と思想による現実の変革

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/06/01/200057

 

フィクションと本と読むこと、思想と現実 ~人は読むことによって何かを生み出す

フィクションと自我の関係をお話しようと思っていたのですが、しばらく書いていないうちになにを書こうとしてたのか忘れてしまいました。それでこんな話するつもりだったのかなぁ、と思い返しながら書いてみたいと思います(またズレていくかも…)。

 

フィクションは必要か?

フィクションというのは一見すると必要なのか必要ないのかよかわからなくなる気もします。たとえば今みたいに景気が悪いと金にならない文化は切り捨てろ、みたいなこと暗黙にとはいえ声が上がっているようにも感じます。民主党時代の事業仕分けとか、今大学等科学分野での補助金が減らされているのも同じ認識の枠組みの中での出来事かもしれませんね。それらはどうやってお金になるのか、お金を与える決定権を持つ人たちや支持している人たちにはわからないわけです。多分。

 

漫画や小説は必要か?

しかしそれは補助金云々の社会的な領域だけではありませんね。たとえばひと昔前には漫画ばかり読むんじゃありません、なんてお母さんに怒られたもんです。小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』を書き出した最初の頃の憤りは漫画の社会的地位が大変低いことにもありました(今では信じられませんね)。じゃあ漫画に対してなにが偉いかと思われていたかといえばおそらくは文学であったでしょう。それも批評込みで、具体的に言えば夏目漱石や小林秀雄が偉かったわけです(実際偉いし今でも偉いけど)。

 

【夏目漱石『吾輩は猫である』/小林秀雄『読書について』/小林よしのり『ゴーマニズム宣言』】 

しかし小説ももっと昔は偉くありませんでした。小林よしのりが最初仲良くって『ゴー宣』にもよく出ていた呉智英は柳田國男の話をひいて昔の教養程度を説明していたことがあります。

 

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柳田國男のお弟子さんが勉強もせずに本を読んでいた。それは小説で、それを見た柳田はそんなもん読んでないで寸暇を惜しんで勉強しろ、と叱ったと言う。だがその小説はアナトール・フランスの作品であり、しかも翻訳ではなく原著のフランス語であったと思われる。今であればそれ自体が硬派な勉強である。それを遊びと捉えたのが当時のエリート層の教養程度である(大体こんな感じのお話)。

 

【呉智英『読書家の新技術』】 

(たしかこの本の中でこうした話が書かれていたかと思います)

 

びっくりしちゃいますね。

 

まぁ呉智英も今時そんな真似出来ない、と半世紀近くも前に言ってますから(と思って見直してみたら、別にそんなことは書いてなかった。ただ読書は時代とともに変わる、と書いていた)、令和の今日この頃ではもっと無理でしょう。しかしポイントは同じとも言えます。漫画であれ小説であれ、フィクション=作り話には価値を求めないという態度です。

 

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似たようなことは文学者側でも言ったりします。サルトルは第三諸国で飢えた子供の前では文学は無力だ、と言ったそうです。これもやっぱりフィクションというものがなにか社会的に力のない、無力な存在であると感じ取られているのだと思います。そして実際フィクションがいかに生み出されていても物理的になにかが変わるわけではありません。

 

【サルトル『嘔吐』】 

(サルトルがどこで言ってるのか知らないので、サルトルの一番有名な小説載せてみることにしました。独学者と呼ばれる狂気のお勉強執念者がとても魅力的です)

 

人はパン(=物質的なもの)のみに生きるにあらず

しかしこれも人類の歴史の最初の時点で批判されているとも言えます。イエスは人はパンのみに生きるにあらず、と言いましたが、これは先の価値観を逆転させたものだとも言えるかもしれません。パン、つまり物質的なもの(食べ物、道具、お金…)によって人は確かに生きているし、それ抜きにしては多くの人も養っていけない。しかし人間は物質的な存在だけではない。精神的な存在でもある。そして人間というものは物質的(=パン)のみて生きていくことは出来ない。精神的(=この場合は神の言葉だろうか?)なものもなければ生きていけないのだ。こういうところでしょうか。

 

【新約聖書】 

 

しかし精神的なもの、といっても難しいものです。イエスの伝える言葉はなんとなくすごそうです。それに比べると小説は創作であってもそんなにすごいのかな、なんて思わないでもありません。

 

書物と批評と人類の思想的営為

しかしイエスの言葉(新約聖書)も含めて聖書は西洋の歴史の中で常に言及され研究され、そこから新しい思想や自己認識を生み出してもきました。いわば聖書を対象として千年以上批評してきたわけです(旧約聖書はある種の民話集とも言えますし)。それと同じように近代では文学を対象として批評をしてきました。いわばやってることは同じなのです。正典とみなされるテクストを前にして、真剣に読むことによって目の前の現実を乗り越えるような考えを生み出していくわけです。

 

【中世思想原典集成 精選版】 

(平凡社ライブラリー版だから7冊に収めてますが、原本は全20巻! ひぇ〜。しかもその大半は完訳ではなく部分訳でそもそもヨーロッパ諸語でも翻訳されていないものもあるとか…すごいアンソロジーだ)

 

そういえばリチャーズという批評家はニュー・クリティシズムという流派を生み出すきっかけともなった『文芸批評の原理』という本の冒頭で面白いことを言っています。それはどの時代においても文学の批評は当時を代表とする知性の持ち主が行った、というものです。これは確かで古代ギリシアでもアリストテレスがギリシア悲劇を分析して今日まで使える『詩学』を書いていますし、近世でもレッシングが『ラオコーン』なんて小説と絵画を対比した面白いもの書いてますし、ヘーゲルも『美学』の中で小説を取り扱っていたかと思います(ヘーゲルは読んでないのでよく知らない。また中世はどうだったのかも知らない。聖書だけで世俗の読み物は認めてなかったかもしれない。しかしアウグスティヌスもアンセルムスもトマス・アクィナスも当然聖書はとことん読んでて、過去の聖人の書いたものもしこたま読んでる)。

 

【リチャーズ『文芸批評の原理』/アリストテレス『詩学』/レッシング『ラオコオン』/ヘーゲル『美学講義』】 

【アウグスティヌス『告白』/アンセルムス『モノロギオン』/トマス・アクィナス『神学大全』】 

 

思想と現実の現状維持と変革

こうしてみると、文学と批評はセットであり、そこから現実を乗り越えていくアイデアや考えを生み出してきた、ということがひとつの歴史として行われてきた、ということが浮かんできそうです。これはパン=物質的なものだけを相手にしていては得られない態度です。またパン=物質的なものだけを求めるのであれば現実など変える必要ありません。社会的地位にある人物は既得権益(もしくは一度手に入れたもの)を得続けるために下層は変わらず下層であって欲しいですし、そのため経済的階級を固定化させるために歴史的起源、社会的機能を理由に階級を社会的に固定化させることを求めるでしょう。そしてその下にいる人たちはそれが当たり前だと思ってくれることこそ社会の維持にもパン=物質的なものを求めるのにも効率的です。しかしいわばイエスはそうした固定化に対して普遍的な基準で否と唱えたのであり、それはやはりパン=物質的ではない別のものを求めたから得られたわけです。

 

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…と、やっぱりすっかり話がズレてしまいましたので、ますます脱線しないうちに今回はこれくらいにしておこうかと思います。あれ〜、おっかしいなぁ。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.08

 

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お話その204(No.0204)

自我像の明確な意味の不明瞭さと複雑な現代社会ゆえの自我代替システム ~何者でもない者が、何者かであるように見せ、何者かになる作家/スターの社会機能

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/25/200051

 

複雑な現代社会と自我代替システム ~あの人みたいになりたい、とっても素敵!

複雑な現代社会

現代は社会がとても複雑になり、その中で身につけなければならない素養はかつてと比べて莫大に多くなりました。それどころかいくらやっても終わりがないかのようです。それははっきりとした大人像が描きにくくなったということでもあり、それにともなって明確な自我を確立しにくくなったとも言えるかもしれません。

 

自我の代替者としてのスターやフィクション

そんな現代社会に手間のかかる自我の代替者として、自我の投影先となるスターやイベントの存在が考えられるようにも思われたのですが、同時にフィクションの存在も似たようなものとして捉えることができるかもしれません。それはキャラクターに自我のモデルや投影として捉えるというものですね(前々回くらいにブックマークで先に書かれちゃった。同じ話になってしまいますがごめんなさい)。

 

フロイトとフィクション

フロイトはフィクションの役目も自分の立場から色々考えて書いているのですが、その中でたしかフィクションとは現実で成し遂げられなかったことの代替経験である、というようなことを書いていたかと思います(うろ覚え)。それは私たちの人生がひとつのものでしかなく、いくつもの可能性のうちたったひとつのものが自分の人生であることに対する不満でもあります。他にこうした生き方もできた、ああなりたかった、そうした欲望を変わりに体験させてもらえることで埋め合わせるというわけですね。これは人間心理において非常に重要な役割を果たすそうです。

 

【フロイト著作集3『文化・芸術論』】 

(たしかこの巻に書いてあったんじゃないかな。忘れた)

 

同じことを小林秀雄は宿命と呼んだはずです。ああもなれた、こうもなりたかった、しかし自分は今のままでしかない、しかしそれは自らの宿命として受け入れよ。こうした観点ですね。それはそれで正しいですし間違っていません。

 

【小林秀雄『初期文芸論集』】 

(小林秀雄はどこで読んだか覚えてない。新潮文庫や角川文庫にばらばらに収められているのでこんがらがっちゃってる。初期の代表作をまとめてあるこれならどっちにしろ読んで損はないかもしれない)

何者でもない者が、何者かであるように見せ、何者かになる

さてフロイトはしかしちょっといじわるな言い方もしていたと思います。それは作家というものは現実世界の中で敗北者である。政治的にも経済的にも勝者になったわけではない。そうではなくただ空想において他の可能性を描いて読む者を慰めるだけである。しかしそれゆえに人々(読者)の支持を得て現実社会の勝利者となる(もちろんうろ覚え。文面はこうじゃないと思う)。

 

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つまり作家(この場合小説家だけど、当時は他に創作の分野がそうなかったから実質的にフィクションの創作者と捉えてもいいかもしれない)は何者でもないんだけど、何者かになった虚構を築くことによって本当に何者かになる、とでもいったところでしょうか。ちょっと捻れてて、まるで仮面をかぶって王様になったかのようでもあります。

 

作家/スターの社会機能

しかし小説家だけでなくスターと呼べる人たちも政治/経済的に何者かなわけではありません。スポーツでも俳優でもタレントでも、よく考えたら小説なんかと一緒で別になくてもかまわないかもしれない業種です。社会のシステムを担っているわけではありませんし、野球でもサッカーでも興味のない人には必要のないものに見えてきます。特に不況下での文化に対する態度はこうした形が顕著です。ちょっと記憶を遡ってみるだけでもしょっちゅうあちこちで言われていたような気がしますね。

 

【ブーアスティン『幻影の時代』】 

(この中に似たようなことが書かれていたかと思います。かつては有名な人は何かをなしたことで有名になった人であったが、現代においては有名であるということが有名である条件になっている。つまり何者でもない。ある将軍は熾烈な戦地で勇敢に戦って勝ったから有名だが、スポーツ選手が試合で活躍して勝利することはたとえ有名になっても同じ価値を持つわけではない。といったようなことだったと思いますが、いつものようにうろ覚えなのでよければこの本を読んでみてくださいね。別にスポーツ選手だって偉くったっていいと思いますが、そりゃ武田信玄のように偉いのかと言われると困ってしまいます。さんまじゃあるまいし、トーク現場を戦場っていっても本当の戦場とは違いますもんね)

 

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しかしどちらかというと政治や経済で頑張っている人よりもスポーツ選手やタレントの方が尊敬されていて、政治家なんてボロクソ言われることも仕事のうちの様子です(いや、タレントもそうかな。言われないのは偉くなりきった人だけかも)。これはきっと社会のそれぞれの仕組みがどのように動いているか一見してほとんどわからないことが関わっているでしょう。偉いといっても偉い理由が外様の人間にはわからないわけです。そこで日常的に知っているタレントの方が親しみやすく尊敬しやすくなるのかもしれませんね。

 

自我代替システムとしてのスター/作家

ただそれはそれなりに理由があることなのかもしれません。フロイトの言うように作家(やタレント)が何者でもないことによって何者かになるのだとしたら、それは支持している私たちの似姿としてあるからかもしれません。そして自分たちと似た者を支持することは、ある意味では自我の投射先として各タレントを捉えていることになるのかもしれません。そしてそれは自我の確立の難しくなった現代にあって、常に自我の投射先を提供し続けているということになっているのかもしれません(と同時に、支持しない人には自らのなれなかった姿として強烈な嫉妬をも呼び起こすのかもしれない)。

 

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つまりスターやタレント、作家というものは現代社会における自我代替システムなわけですね。自我の確立というものがはっきり出来ていればいいのですが、それはかなり困難です(また自我の確立期に達してない年少者は常に現れてきます)。一見出来ているように見えても単に視野が狭かったり自己中心的なだけであったりするかもしれません。いやそもそも自我の確立がどのようなものを意味するのか、デカルトからヘーゲルに連なる自我の意味を把握しながら確立していくなんてことはどれほどの人に求められるのか、中々難しい問題です。まぁ実はとっても簡単ならそれでもいいのですが(私が哲学かぶれなだけで難しく考えているだけかもしれないし)、しかし自分探しを求めてしまう心性が大人になってもあるとしたら、やっぱり簡単ではないような気もします。それにみんな自我が確立されていたらこんなにネットは荒れないでしょうしね。だとしたら自我の確立は中々大変で、年を経れば勝手に成立しているもんではない、と一旦捉えてみることにして、そのうえで自我の代替システムとして様々なスターや作家の存在があり、そこへ私たち未成熟な自我の持ち主が我が身を投影させながらスター/作家たちを支持してしまう、というようにここでは考えてみておきましょう。

 

そう考えてみると、政治や経済とは関係ないように見え、一見社会の無駄に思えるエンタテイメントやフィクションにスポーツは非常に重要な社会的役割を果たしていると言えます。

 

【サルトル『実存主義とは何か』/100分de名著】 

(昔サルトルは、第三諸国で飢えて泣いている子供に対し文学になんの価値があるか、と問い立てましたが、それと似たような問題かもしれませんね。サルトルがどこでそういったのか知りませんので、関係ありそうなものを100分de名著と共に載せておくことにします)

 

…あれ、フィクションの話にまでいかなかった。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020_6_3/フィクション%2C読む

 

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お話その203(No.0203)

タレントの存在意義となる現代社会における自我の代替者/投射対象としてのスター ~私の代わりとなるカリスマ(俳優,歌手,スポーツ選手)を生み出し続け機能する芸能界という社会システム

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/20/200005

 

わたしの代わりの誰かさん〜現代社会と自我の代替者

現代社会と自我のゆくえ

そんな群衆と自我のゆくえですが、未開社会のような通過儀礼を失った現代ではどこで成長の境界線を引けばいいのかわからなくなってきます。しかも現代社会では無個性な個人によって代替可能な仕事が増えていっているのだとしたら、私たちは根本的に群衆みたいな在り方に規定されていてそもそも自我の確立なんてこと自体が不可能事と化しているのかもしれません。

 

【フロイト『自我論集』】 

(フロイトが自我について書いたものをまとめたもの。難しくてよくわからない)

 

 

自我(私?)の代わりの誰かさん

しかしそんな現代においてもやっぱり群衆化しているかもしれない私たちにとって自我の代替者は求められるわけです。それを政治的に行うとちょっと危ない今日この頃な気がしてきますが、経済的(商業的?)であれば当たり前に存在しています。それがタレントやイベントの存在ですね。

 

【テレビ・タレント人名事典】 

(これ結構面白い事典で、発行時点でのタレントの経歴や出演番組なんかが記載されています。ちょっと古いのですが、その分昔のTVの様子がわかって少し笑みがこぼれてきます)

 

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たとえばスポーツ選手の活躍に自分を重ねてみることはあるでしょうし、歌手や俳優にも同じことはあるかと思います。実際本当に偉い人はたくさんいますし、そこから学ぶことだって色々ありますしね。実業家でも現代アートに興味持つ時は自分たちの仕事と重なる面がある、なんて言ってたような気もします(どこでだったか覚えてないので勘違いかも…)。

 

それぞれの分野のカリスマ・スター

こうした人たちはある種のカリスマであってスターなわけですね。野球なら長嶋茂雄、歌手なら矢沢永吉、俳優なら高倉健なんかがそうなのでしょうか(古い?)。ファンは彼らを尊敬していると同時に、自分のありたい姿として自らを重ねているのかもしれません。何者でもない私が万人に認められた彼らに憧れるのは当たり前といえば当たり前ですね。

 

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そしてこうしたスターはそれぞれに活躍する場があります。スポーツならスタジアム、歌ならライブ会場、役者なら銀幕と、各々もっとも輝く場所が用意されています。そしてそこでひときわ輝く存在としてスターたちが現れ、見ている側は一時的に彼らに自らを託すのです。

 

【モラン『スター』】 

(映画がまだ目新しかった時代に映画俳優=スターを分析したものだそうです。ただ私はまだ読んでいません。面白そうですね)

 

時代と共に変わり、新しく現れるスターたち

またこのようなスターとイベントは様々な分野で存在し、時と共に変化して新しいものも出てきます。昔であればアイドル歌手が芸能界の中心でしたがM-1以降芸人が中心を占めているように見えます。またアイドルもバラエティに強くなったことで逆に芸人の場所を奪い返しつつあるようにも思えてきますが、代わりにかつてのアイドルのようなことを今度は声優が場所を占めているようにも見えてきます。それぞれの分野と人は変わっているのですが、スターとイベントが存在し続けていることには変わりありません。

 

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現代社会システムに組み込まれる自我代替機能

それは商業化され経済システムに組み込まれた自我代替機能のようにも受け取れないこともありません。つまり複雑化された現代において自我の確立は困難を極める(と、みなされる)中、擬似的に自我を投影させて自らを支えるような存在としてスターやイベントがあり続けている、ということです。そしてそれは未開社会の通過儀礼を現代社会において擬似的に生み出していると考えてみることも出来るかもしれません。しかも事実上資本主義システムから逃れることの出来ない現代社会で、きっちりと経済システムに組み込まれた形で機能していくようになっていて、もしかしてこれは人間存在に対する現代社会の叡智だったりする可能性もあるのでしょうか。それともマルクスが非難した資本主義的搾取の形のひとつで、自我の確立すら商品化され金を巻き上げているのでしょうか。はたまたアダム・スミスが近代的経済システムの叡智として称賛した分業の一種なのでしょうか。

 

【ヘネップ『通過儀礼』】 

(文字通り未開社会における通過儀礼について書いた本。その構造について分析されていたような覚えがあります)

【ブーアスティン『幻影の時代』】 

(まだTVが目新しかった頃のTV論で、この中にTV等を通して社会的に演出される擬似イベントという考え方が出されています。これを洗練させたら今日のイベント事のようになるのかな、とふと思い浮かんだので載せてみました。それにしても映画にしろTVにしろ、現れた時点で実に批評的に学者の手によって分析されているもんですね)

 

そんな難しいことはわからないのですが、しかし意外と人間の持つ根源的な在り方と結びついた形で私たちの周りにあるものは成り立っているのかもしれませんね、というところで今回のお話は終えておこうかと思います。なんか疲れててうまく書けなかったなぁ。

 

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お話その202(No.0202)

ジェソップ(英) 本【著作(翻訳)ブックリスト一覧/リンク(Amazon)】

ボブ・ジェソップ(Jessop, Bob)

 

ジェソップ著作リンク一覧

 

資本主義国家 : マルクス主義的諸理論と諸方法(田口富久治 [ほか]訳. 御茶の水書房, 1983)

プーランザスを読む : マルクス主義理論と政治戦略(田口富久治 監訳. 合同出版, 1987)

国家理論 : 資本主義国家を中心に(中谷義和 訳. 御茶の水書房, 1994)

資本主義国家の未来(中谷義和 監訳, 篠田武司, 櫻井純理, 山下高行, 國廣敏文, 山本隆, 伊藤武夫 訳. 御茶の水書房, 2005)

国家権力 : 戦略-関係アプローチ(中谷義和 訳. 御茶の水書房, 2009)

金融資本主義を超えて : 金融優位から賃金生活者社会の再建へ(M.アグリエッタ,  共著, 若森章孝, 斉藤日出治 訳. 晃洋書房, 2009)

国家:過去,現在,未来(中谷義和, 加藤雅俊, 進藤兵, 高嶋正晴, 藤本美貴 訳. 御茶の水書房, 2018)

 

ジェソップ著作一覧

 

資本主義国家 
プーランザスを読む
国家理論
資本主義国家の未来
国家権力
金融資本主義を超えて
国家:過去,現在,未来

 

Wikipedia

ja.wikipedia.org