日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

言葉の表現におけるジャンル/分野の違い 〜小説、エッセイ、評論、論文の違い

 

言葉のジャンルの違い 〜小説、エッセイ、評論、論文…どこがどう違うんだろうか…

小説とはどんな表現か

さて、別段小説の話がしたかったわけではないのですが、言葉がなにを表すのか、という問題からややこしく迷い込んでしまいました。

 

f:id:waka-rukana:20200807155219j:plain

 

とりあえず小説が時間的芸術で言葉もまた前から後、前から後、と時間と同じように進んでいくということだけ今日はわかったことにしておきましょう。

 

しかし小説は芸術です。どんな芸術だ、と言われたら時間的芸術というだけでは足りずなんと言っていいかわからず困ってしまいます。たしか東大総長も勤めた文芸評論家兼映画評論家の蓮實重彦は、小説とはなんであるか、という定義をすべて裏切るものこそが小説だ、と述べていたことがあります。とりあえずなんでもありなんだとは言えそうですが、一応他のジャンルとは線引きくらいはあるでしょう。

 

書かれるもののジャンル性

たとえばこうして書いてある文章はブログですが、文芸ジャンルとしてはエッセイになるのではないでしょうか。また蓮實重彦は小説も書きましたし三島賞も獲ったりもしましたが、主な肩書きは批評家で、となると同じ人が書いていても小説と評論の区別は出てくるわけですね。さらに評論と論文というわけかたもあります。まぁ評論も論文かもしれませんが、しかし学者のエッセイを読んでいますと評論と学問は違うとはっきり線引きします。となると私にはよくわからなくてもどこかに違いがあるのでしょう。

 

f:id:waka-rukana:20200807164935j:plain

 

書き手の立場の違い

しかし大きく分けるなら、書き手が自分の立場から直接に書く文章のジャンルと、書き手が自由に創作するジャンルとにわかれるような気がします。エッセイでも評論でも論文でも、書き手ははっきりした誰かの観点によって書かれています。創作は書き手ははっきりしていますが、その中身は自由で視点人物が変わってもいいですし、なにも書き手の言いたいことを表現する必要もありません。ただ読者を楽しませるために書いても怒られはしませんが、論文でそんなことすれば村八分になる可能性もありそうです。逆に創作で政治的立場の表明を綿々と書き連ねれば、こちらはこちらで村八分にされそうです。ですが評論であればむしろ無い方が批判されるかもしれません。

 

 

そして創作は視点が作中において色々と変わってもいいので、登場人物の周りの世界も表現されます。そこから描写が生まれるのでしょうが、エッセイや評論、論文はそんなものありません。となると小説で理解したような言葉の時間的関係が必要なくなります。別に空間的存在を言葉にする必要はないので、無理に並べなおすことなど起きないのです。

 

f:id:waka-rukana:20200807165238p:plain

 

では創作(もしくは小説)ではない文章は一体どのような規則で並べられているのでしょうか。前から後、前から後、の時間的関係は言葉や文章であれば必ず生じてきそうですが、それがエッセイや評論、論文などのジャンルではどのように時間と関わりがあるのでしょうか。もしくはないのでしょうか。

 

う〜ん、考えてわかるかなぁ。ちょっと自信ないですが、また明日から考えてみましょう。

 

 

 

参考となる本

【小谷野敦『評論家入門』】 

評論と学問の違いを説明されているのですが、なんとなくはわかるのですがそうはっきりはしません。多分両方のジャンルをたくさん読んで、自分でも書き比べると腑に落ちるのかもしれませんが、そんな真似出来る人はほんの少しと思いますので結局すっきりしないかもしれません。

ただ著者なりに有名評論採点リストなんて作ってくれていますので、そこからヒントを得ることも出来るかもしれませんね。

【マルサス『人口論』初版/6版】 

評論と学問(論文)の違いとしていい対比になるのではないかと思うのがこの二つです。

これは同じ本なのですが上は初版で、下は最後の第6版になります。しかしこれが全然違うものになっています。初版は内容の要旨のみを簡潔に述べていて、実にわかりやすく読みやすいです。しかし6版は初版から30年近くたっており内容は5倍、自らの論旨を補強すべく様々な文献から膨大な引用と参照を添え生半では読めない代物となっています。そのためなのか、初版の翻訳は色々あるのですが、6版は戦前に出たこれと中央大学出版部から85年に出たものしかないようです。一応私の読んだものを載せておきますが、初版は好きに選べばいいかと思います。6版は、図書館で探してください。値段が高すぎます。まだ春秋社の方が安いんだもんなぁ。

ただ同じ本で内容も同じなのにあまりに違って見え、そしてこの違いこそ評論と学問の違いなのではないか、とも思えてきます。興味のある方は参考になるかもしれません。つまり自説を述べるだけでは評論やエッセイにしかならず、それを学問として厳密化するためにはあらゆる文献から批判検討して逐一検証しなくてはならない、という違いなのではないでしょうか。学者や研究者なら当たり前なのかもしれませんが、門外漢にはよくわからないので、それは学問ではない、みたいに書かれているのを読みますと困ってしまいます。どう違うのか書いといて欲しいなぁ。

一応中央大学出版部のものも載せておくことにします。値段でも見て嫌になってください。 

 

次の日の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/27/120049

前の日の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/25/120058

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

 お話その39(No.0039)

目に見える世界=空間と時間によって現れる言葉により起こる表現の分断 〜芸術表現によって変わる現実の姿(付:バルザック『ゴリオ爺さん』/山口昌男『山口昌男コレクション』『山口昌男ラビリンス』)

 

言葉と視覚世界 〜目に見えるものを言葉にすると世界は分断され置き換えられる?

恣意的な結合としての記号

言葉が対象と恣意的に結びついている、という関係を記号と呼びます。これ僕の、と名前を書いておくような姿を思い浮かべてもらえばいいかもしれません。名前というものがサインや印と一緒の働きをして、そうしたサインや印のことを記号と呼ぶわけですね。物にシール貼るようなもので、シール貼ることを記号化ということになるでしょうか。

 

f:id:waka-rukana:20200807155058j:plain

 

これが便利な考え方だというので、昔随分流行りました。記号論というのですが、日本では80年代頃に流行ったそうです。そのおかげでよく古本屋に並んでいて手に取りやすく、今でも探せば簡単に見つかるかと思います。最近になってこの頃出た大きな本が文庫化されたりもしています。この文章を読んでいらっしゃる中には詳しい方もいるかもしれません。そうした方々は私の書いたものはいいかげんだなぁ、と笑ってすましておいてくださいね。

 

小説と視覚世界

さて、もうちょっと小説の言葉に戻ってみましょうか。言葉がこうして対象を記号化し、小説がそうした言葉によって充満しているものだとすれば、どうして小説が時間的芸術になるのか理解が深まりそうです。

 

f:id:waka-rukana:20200807155219j:plain

 

私たちが周りの世界を捉える時、どうしても視覚を中心に捉えてしまいます。目に見える世界こそが人間にとって中心となる世界の姿だと考えられそうですが、犬であれば臭いによって、コウモリであれば音によって世界像が生まれてきそうですけれども、きっと人間は目に見えるものによって世界像を生み出し持っているのだと思います。

 

視覚=空間世界とその記号化

視覚によって世界像を持っているということは、当然空間的に世界を捉えていることになるでしょう。つまり芸術的には絵画のようにして私たちは世界を捉えているわけですね。しかし、視覚だけでは世界はただ五感によって捉えられているだけで、いわば感覚的というか印象的というか、自分の中で世界が映っているいうだけということになってしまうかもしれません。

 

f:id:waka-rukana:20200807161122j:plain

 

けれども人間はそれではすまないように作られているようです。目の前に映っているものを、なんだこりゃ、と疑問に思い考えてしまう存在で、放っておいても考えるんだ、と昔のとても偉い哲学者のカントは言いました(もっと難しく言いましたけど)。とりあえずそれを受け入れるとして、考えるとなると目の前に映っているものを在るものとして記号化し、言葉にする必要があります。そしてその言葉を使って考えていくことになります。

 

記号の並べ順=直線化

この時視覚的に捉えられた世界に存在する、目の前にある一つ一つの物が言葉にされるわけです。それは視覚によって一瞬にして全体的に捉えられる世界を、対象となるもの一つ一つを個別に捉え直すようなものです。たとえばテーブルの上にリンゴ、パイナップル、柿、いちご、梨が白い一枚の広いお皿の上に乗っている。こう説明するだけでも7つの固有名詞があり、物の対象が記号化されて言葉になっています。読むと1、2秒かかりそうです。しかしこの説明された光景を直接見ると一瞬で終わります。つまり空間的に一瞬で受け取れる情報を、言葉にすることによって個別に順序に従いながらしか受け取れなくなるわけです。

 

 

そしてこの順序が一直線にしかなりませんので、前から後、前から後、と時間と同じ進み方になり、小説は時間的芸術となるのではないでしょうか。

 

つまり言葉によって表現したり説明したりするということは、視覚的世界においては一瞬で捉えられるものを、個別的にわけて1つずつ順番に捉えていく、という風に置き換えられてしまうわけです。そのため視覚的なものを言葉で表現しようとすると本来の姿のようには再現できないわけですね。言葉では必ず対象を記号化し分断してしまいますから、全体を一瞬にして捉えられるような視覚的な受け取り方ば不可能なわけです。1つずつ1つずつ、順番に順序よく続けて直線的に読んでいくしかありません。空間を直線に無理矢理置き直してるわけですね。

 

こんな感じに理解してみましょうか。

 

電子書籍といえば国内最大級のhonto電子書籍ストア!
お手持ちのスマホですぐ読める!書店で使えるポイントが貯まる

 

参考となる本

【バルザック『ゴリオ爺さん』】 

視覚的に世界を言語化する困難は、やっぱりバルザックを読むとわかりやすいかと思います。バルザック自身は当時猛発展していた科学の信奉者で、こうした書き方をしたのはあらゆるものがいつか科学的に証明されるはず、という期待から生まれた、とどこかで読んだ覚えがあります。いわばバルザックの思想から必然的に生まれた文体だったわけですが、それが違う形で問題を投げかけてくれます。描写って、難しいもんだなぁ。

【山口昌男『山口昌男コレクション』『山口昌男ラビリンス』】 

こちらは昔日本で代表的な記号論者としてみなされていた山口昌男です。もともと文化人類学者だったのですが、最新の思想や学問を身につけ、当時八面六臂の大活躍だったそうです。

もう亡くなってしまいましたが、こちらは亡くなった後に出されたアンソロジーです。きっと著者のエッセンスが出ていて最初に読むのにいいかもしれないと思って載せてみました。私は他の作品をいくつか読んだくらいですが、とても面白かったです。

また 

単行本未収録の文章を集めたこんな凄い本も出ています。ネットで見てもわからないでしょうが、電話帳2冊分くらいのデカい本です。誰も買おうと思わないでしょうけれど、その大きさだけでも面白いので載せておきます。もしどこかの古本屋さんで見かけたら指差して笑ってあげましょう。でかっ!

 

次の日の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/26/120057

前の日の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/24/120052

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

 お話その38(No.0038)

【まとめ】ユーラシア大陸と偉大な思想と文明と接触と日本【20】

 

現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。

 

f:id:waka-rukana:20200729165757j:plain

まとめ20 ユーラシア大陸と偉大な思想と文明と接触と日本

このまとめの要旨

日本のからっぽさに対して偉大なものというのはユーラシア大陸に関わるものなのではないか、というようなことを踏まえて色々書いたものののまとめ。

 

書いたものの一覧

f:id:waka-rukana:20200729164637j:plain

www.waka-rukana.com

日本はからっぽかもしれないけど、じゃあ偉大なものっていうのもほとんどユーラシア大陸のごく限られた文化圏だけでしか生まれてないんじゃないの、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

梅棹忠夫は大陸の中心と端で文化圏を分けて、日本やヨーロッパは今までの歴史の中で疲弊せずに余力が残っていたから近代化出来たんだ、と考えた、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

またウォーラーステインは近代世界システムというものを考えていて、中心と周縁の関係によって世界の繁栄と従属を捉えました、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

こんなユーラシア大陸の文化圏も、きっとこれまでにも様々な文化圏同士の対立や接触があったようだし、それによって養われてきたのかもしれないね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

文化圏同士の接触もあれば同じ文化圏内でも政治権力による対立もあるわけで、そうした中で一方によらないような普遍的な思想が養われていったのかもしれない、ーというようなお話。

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 PVアクセスランキング にほんブログ村

ブレンターノ(独 1844-1931) 本【著作(翻訳)ブックリスト一覧/リンク(Amazon)】

ルヨ・ブレンターノ(Brentano, Lujo)

 

 

ブレンターノ著作リンク一覧

 

労働経済論(福田徳三 著. 同文館, 明33)

最近商政経済論(アドルフ・ワグナー共著, 関一, 福田徳三 訳. 大倉書店, 明35)

労働者問題(再版 森戸辰男 訳. 岩波書店, 大正8 → 3版 岩波書店, 1919)

近世資本主義の起源(田中善治郎 訳. 有斐閣, 昭和16)

欧羅巴古代経済史概説 (西洋経済史名著選集 舟越康寿 訳. 日本評論社, 1944① )

農政学原論 (東亜農事研究所叢書 東畑精一, 篠原泰三 共訳. 西ケ原刊行会, 昭和19 → 改訂版 地球出版, 1954)

プロシヤの農民土地相続制度 (翻訳叢書 我妻栄, 四宮和夫 共訳. 有斐閣, 1956)

現代労働組合論 (イギリス労働組合批判 古典双書 上巻 島崎晴哉, 西岡幸泰 訳. 日本労働協会, 1985  下巻 日本労働研究機構, 2001)

わが生涯とドイツの社会改革 : 1844~1931 (自伝文庫 石坂昭雄, 加来祥男, 太田和宏 訳. ミネルヴァ書房, 2007)

 

ブレンターノ著作一覧

 

労働経済論
最近商政経済論
労働者問題
近世資本主義の起源
欧羅巴古代経済史概説
農政学原論 
プロシヤの農民土地相続制度

現代労働組合論 上下
わが生涯とドイツの社会改革

 

Wikipedia

ja.wikipedia.org

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

言葉と意味の関係 〜恣意性と差異化による意味なき言葉の意味決定(付:ソシュール『一般言語学講義』/丸山圭三郎『ソシュールの思想』『ソシュールを読む』)

 

言葉と意味づけ 〜言葉の意味は意味なく決まる!?

言葉は何を表すのか、なんて、とても大変な問題です。私の頭だけでは無理なので、また偉い先生の言うことを参考にさせてもらいましょう。

 

f:id:waka-rukana:20200730210653p:plain

 

ソシュールによる言葉と意味の関係

ソシュールというとても偉い言語学者の方がいて、この方が言葉の意味づけについてとても面白い考え方をしました。

 

ソシュール先生は言葉とその意味するものは別段なんら必然性はないと言います。たとえば犬を、毛並みのある鼻と口のとがった人よりも小さくワンワンと鳴き周りにまとわりつき可愛らしいけど獰猛でもありうる人間に近しい動物、を意味するのは単に言葉と対象となるものの結びつきでしかない、というわけですね。

つまり

 

犬(言葉)

   

f:id:waka-rukana:20190615214306j:image

(対象)

 

という関係なわけです。

 

恣意性と差異化

この時、言葉と対象となるものの関係は恣意的だ、と言います。つまり別段意味があって上の写真の動物がイヌと呼ばれるようになるわけではないと言います。じゃあなぜイヌと呼ばれるのかと言えば、上の写真の動物のことを表す音がたまたまイヌと呼ばれたからだ、と言います。

 

上の写真の動物をイヌと呼ぶのはイネでもなければイカでもなく、イヌだったからで、それは一つの言語体系の中で各対象が音の組み合わせによって表される以上、似た音の言葉が生まれてくるのだけれど、それぞれ音の違いによって意味わけされているから言葉によって対象が異なって意味づけされている、となるわけです(多分。ちょっと怪しくなってきちゃった)。

 

f:id:waka-rukana:20200807155058j:plain

 

犬と稲と烏賊は当然意味している物が違いますし、どう違うのかも日本語を理解する私たちにはすぐわかります。しかしその意味の違いを言葉の水準だけで考えると、ニ音目が違うことにしかなりません。となると外国人のように日本国を理解しない人に、なぜこの言葉が似ているのに意味が全然違うのか説明しようとしても言葉からだけでは上手く説明できなかったりします。それは言葉の意味はそれだけで捉えれば単に恣意的、つまりなんら必然性はなく意味がないからです。

 

世界認識と言語化

こう教えられますと、私たちは身の回りのものすべて、いわば世界そのものを言語化して理解していることになりますね。風景や音といった五感を通して受け入れられるものがまずありながら、同時にそれらは言葉として理解することによって自覚し考えていくことが出来るわけです。そして世界のあらゆるものを言葉として捉えることによって、その対象となるものをどのように変化させていけばいいかも考えられるようになり、自分以外の存在に働きかけることが出来るようになる、というわけでしょうか。

 

聖書にはアダムが神様によってあらゆる物の名前を教えてもらっていて、教えられていない天使よりも優れた存在だ、と書かれていたような覚えがありますが、案外比喩として正しいのかもしれませんね。それともソシュール先生の考えにこの比喩がどこか反響しているのでしょうか。

 

ともかく言葉が対象を意味づけするものだ、ということはこれで納得しておくことにしましょう。深く入り込むと底なしですから、私、お話続ける自信がありません。下に参考となる本だけ載せておきますね。

 

 

 

参考となる本

【ソシュール『一般言語学講義』】 

ソシュール先生の本です。

昔は上の訳しかありませんでした。しかしこれが名うての迷訳で、40年程前日本におけるソシュール研究の立役者丸山圭三郎が批判しましたが、最近になってようやく新訳が出ました。私はそれ以前の読者だったので、読んでもちんぷんかんぷんでした。新しい訳はそのうち読みたいな、と思いながらまだ持ってもいません。少なくとも昔よりは読みやすいと思います。

ちなみになんでそんな訳になったかといいますと、丸山圭三郎によればソシュールの言語観が当時物凄く新しい考えで誰も十分にわからなかったからで、しかし上記の訳者である小林英夫は世界で一番にソシュールを翻訳した先見の明のある人だったため、他に参考できる訳もなく大変な難儀の末翻訳されたからだ、ということでした。言ってみればアインシュタインの相対性理論を世界で一番に日本語に訳したようなものですね。だからよくわからんものになってしまったそうです。それでも世界で最初に訳したのは偉いと述べていた気がします。

ちなみに

【丸山圭三郎『ソシュールの思想』『ソシュールを読む』】 

丸山圭三郎によるソシュール論。上が専門書で下がやや読みやすくした一般向けとのことです。まだ読んでないので私は判断できません。他にもソシュールの入門書は沢山あるかと思いますが、私はやっぱり難しくても原典を読んだ方がいいと考えていますので、人に紹介出来るほどよく入門書をよく知りません。だって時間もお金も余裕がないから、入門書より原典買って読むしか出来ないんだもん。中には翻訳ではダメで原語で読め、という方もいらっしゃるかと思いますが、私にはとても到達できるものではありません。翻訳されたものであっても、まだ直接読む方がマシかな、と思っています。あまり無茶な要求をしないでほしいですよね。

 

次の日の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/25/120058

前の日の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/21/060040

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

 お話その37(No.0037)